【急募】琉球藩の二枚舌交渉を擁護する方法 – その3

今回も『琉球見聞録』をベースに明治8年9月における琉球藩の対日交渉について言及します。前回の記事で同年9月3日(新暦)の琉球藩王尚泰署名の公式回答が松田道之を怒らせたことを説明しましたが、なぜ琉球藩が「日清交渉において進貢中止が決定後、清国より正式な外交文書で進貢中止の通達があったのちに(明治政府の達書を)お請けします」なんて回答をしたのか、ブログ主なりに考えてみたところ、以下の仮説に行き着きました。

明治5年に明治天皇は琉球国王尚泰を藩王に封じます。しばらくの間琉球藩は外務省管轄でしたが、明治7年7月に内務省管轄となります(尚泰候実録参照)。つまり明治政府からみると琉球藩の立場は以下のようになります。

この図からもお分かりのように、琉球藩は他府県同様のカテゴリーにあり、それ故に明治政府の行政命令の行き届く範囲であることが分かります(だからこそ琉球藩の対清関係が国権を侵す最大のものとなります)。ただしこれはあくまで明治政府側の想定であって、琉球藩ではそのように考えていなかったのです。琉球藩がイメージする対日、対清関係は下図参照ください。

明治政府側の想定との最大の相違点は、琉球藩側は明治政府との関係と家(皇室)と家(尚家)との関係と考えていたことです。これはかつての薩摩藩との関係とまったく同じであって、家と家の関係だから「国権」という発想がないのです。だから琉球藩に封じられた後も愛新覚羅氏(清国皇帝)と付き合っても矛盾はありません。

それ故に明治政府から対清関係の断絶を迫られたときに、藩王尚泰は次のように弁明したのです。

當藩之儀往昔者政禮諸禮式不相立候上諸篇不自由爲有之事候処皇国支那へ屬し御兩國之蒙御指揮漸々政禮宜罷成藩用之物件も御兩國を便致調辨其外段々蒙御仁恤誠に皇國支那之御恩擧て難申盡實々御兩國は父母の國と擧藩末々に至り奉仰罷在幾萬世不相替忠義を勵度志願御座候處自今支那への進貢慶賀幷彼の封冊を請候儀被差止候ては親子之道相絕候も同前累世の厚恩忘却信義を失申事にて必至と胸痛仕罷在仕合御座候間前件の情實被遊御賢察支那への進貢慶賀幷彼の封冊を受候儀共是迄通被仰付度皇國御管轄之所は鹿兒島縣へ屬し候砌より支那に対し隱密仕候得共支那へ申披明瞭之方に取計幾重にも御兩國之御奉公永久勤勉いたし度御座候間何卒願意御採用被下度奉懇願候(中略)

琉球藩王 尚泰

明治八年八月五日 内務大丞 松田道之殿

引用:喜舎場朝賢著『琉球見聞録』30~31㌻より抜粋

太字部分を大雑把に意訳しますと「我が琉球は皇国(日本)と支那(明・清)のおかげで政治経済が整い、それゆえに(日清両国は)父母の国と思っていますが、いま清国との関係を断絶すると親子の仲を断絶することと同様であり、しかも累世の厚恩を忘却し信義を失うことになるので大変胸を痛めております。それゆえに・・・」となります。これは対日、対清関係を家と家との付き合いとして見ると納得できる言い分です。そして琉球藩の為政者たちにとっての不幸は藩に封じられたことで明治政府の行政に組み込まれたことに彼らが最後まで気が付かなかったことに尽きます。

ブログ主が不満なのは、

現代の歴史学がそのことをきちんと説明してくれないことです。

それは怠慢から来るのか、それとも知られてほしくないのか、はたまたほかに理由があるのか不明ですが、こういうところに何某の大人の事情を感じざるを得ません。『琉球見聞録』の現代語訳が出版されない時点でうすうす察知がついてましたが、沖縄の歴史学が取り巻く環境は外部から伺いしれない複雑な何ががあるんだなと痛感しているブログ主であります(続く)。