琉球王国時代の穴屋を見にいったお話(2年ぶり2度目)

実は以前に当ブログにて掲載したことありますが、今回は2年ぶりに琉球王国時代の民家について言及します。明治34年1月11日付琉球新報に「芋の葉露」と題打ったコラムが6回掲載され、当時の田舎社会の暮らしぶりが詳しく記述されていました。その中に住宅に関する記述がありましたので、参考までに現存する海洋博記念公園内「おきなわ郷土村」に展示されている穴屋(あなや)を再び取材してきました。

今回撮影してきた写真に明治34年1月13日の記事の一部を貼り付けすると、実におもしろい記事ができあがりましたので読者のみなさん是非ご参照ください。

・今日はあいにくの曇り空でしたが、ブログ主は宜野湾から車を飛ばして海洋博記念公園に向かいました。

・ちなみに昔のおきなわ生活体験は「地頭代の家」を使います。

・おきなわ郷土村の案内図です。

・おきなわ郷土村の看板の左側にあるシーサーはEXPO75当時に造られたものです。

ここからは引用タグを使いながら、琉球王朝時代の家(穴屋)の写真に琉球新報の記事を貼り付けていきます。

村には前中後規則たちたる幹線の道路あり。それより村幾多の枝線を通ずるを常とす。併し村の位地に依りては随分不規則なるもあり。而して屋敷の囲ゐは竹と樹木なり。一村の内二三軒は立派な石垣にて囲ゐたるもの□□る、これ等は村中屈指の資産家なり。

*おきなわ郷土村は展示用のため立派な石垣で屋敷を囲っています。

下図は右側は母屋で左側が納屋(台所)です。正面からはいるとゲッキツで衝立(ヒンプン)があり、その左側から入って撮影した写真です。

家屋には三種あり、一を穴屋と云ひ、二をヌキ屋と云ひ、三を瓦屋と云ふ。穴屋とは掘建小屋の事にて、ヌキ屋とは通常の礎の上に建てられたる茅葺屋、瓦屋は市街の家と異なる事なし。何れの村も十中八九は穴屋を以て占め、ヌキ屋瓦屋は資産家にあらざれば建ること能はざるなり。

*王朝時代の家の敷地に説明書きがありました。

琉球新報の記事によると、田舎では「穴屋にありては或は三間半に三間の母屋と三間四方の納屋と二棟続きのものが上等の部類に属し」だそうです(絶句)。

形ばかりの門を入れば突当りに見越の松と云へば洒落て居れども、衝立様に竹か月橘を植へ(石がよく産する所にては高さ四尺長さ六七尺位ひの一枚石を建てたるあり)、これにて一寸と往来の人目を遮ぎれり。

(中略)さてこの植込みの右方より入れば表座敷の庭に到り、左方より入れば台所に到るべし。表座敷とか台所とか庭とか云へば大さうらしけれども、穴屋にありては或は三間半に三間の母屋と三間四方の納屋と二棟続きのものが上等の部類に属し(下略)

*ゲッキツの説明は下図参照

壁はチニブ(竹を編んだもの)が使われ、家屋に釘は使用されていません。印象的なのは軒および入口の低さで、本当に150㌢弱の高さしかありませんでした。

軒の高さは五尺(約150㌢)に足らず出入りもシャガンでする位ひにて、一間(六尺=約182㌢)若くは三尺(約91㌢)の窓には板はぎの戸がたてられたるは甚だ稀にして、先づ百中九十九までは竹で編みたるものなれば勿論鴨居閾(敷居)抔がある筈もなし。

・先づ百中九十九までは竹で編みたるもの(戸)は下図参照。

今回は立ち入り禁止のため中に入ることができませんでしたが、2年前に入ったときはたしかに「歩行く度に牀の竹が動いてその毎に音をたてる有様なり」でした。

牀(ゆか)は丸竹を用ゐ(釘さへ使はず藁縄にて編む)、敷物には藁筵を敷き歩行く度に牀の竹が動いてその毎に音をたてる有様なり。

納屋(台所)です。8畳間弱の広さで半分土間で半分が竹床です。

納屋は半部は竹牀半部は土間なり。此処は全部食堂兼台所兼婦女平素の居間と云ふべき所なり。これ穴屋中上等に属するものなれども、下等の小屋となれば三間(18畳間)の一棟にて台所も食堂も居間も寝室も仕事場も皆兼帯なり。

参考までに明治以降の田舎のエーキンチュ(資産家)の豪邸です。実際に真玉橋にあったものを移築復元した家屋ですが、注目はフールー(豚舎)が非常に立派なことです。

豚小屋には思ひ切つて金をかける習慣あり。財産家の豚小屋は切石にて築きたて随分見事なものなり。世事にたけたる或る老人の話に田舎屋の内容は大抵豚小屋を一見してわかるとあり。誠に穿ちたる言なり。

おきなわ郷土村には本部の民家も再現されていました。昭和初期に建てられたとの説明書きがありました。

*四隅に石柱をつかっていることと、台所の建物(左側)がすべて土間であること以外は琉球王朝時代の一般的な穴屋と同じ造りです。

最後に明治34年1月11日の琉球新報のコラムでは当時の田舎生活について次のように言及しています。

本県の農家は三千万斤の砂糖を産し、三万石の米を生じ、その他麦粟豆の如きも各一万石を下らず。然れども是れ多くは都人の生活に供するのみ。詩人歌つて曰く昨日到城郭、帰来涙満巾、偏身綺羅者、不是養蚕人*と。田舎の生活を一瞥して先づ起る所のものは実にこの感なり。

*昨日城の市に入り、帰り来たれば涙巾に満つ、偏身綺羅の者、是れ養蚕の人ならず(昨日城の市場に行ったところ、家に帰ってきたときは巾(ハンカチ)いっぱいに涙がこぼれおちました、体いっぱいに絹衣装を着けている者は、養蚕の仕事に従事している人たちではなかったからです)

おきなわ郷土村に展示されている穴屋を見学すると、上記引用もウソではないなと思わざるを得ないブログ主であります。(終わり)