【暫定】琉球王国時代のぐう蓄エピソードで打線を組んでみた

1年ほど前に、当ブログで琉球藩の時代のクズエピソードについて言及しました。今回は復習の意味も兼ねて、尚家の琉球国の畜生&クズエピソードで打線を組んでみました。あくまで現時点で確認できた限りの情報で大雑把に纏めましたので読者のみなさん是非ご参照ください(後日新たなエピソードを見つけたら追加訂正します)。

1番(二)琉球王国時代は “貴賎問わず” 女性が文字を読めなかった。理由は修学の機会がまったくなかったから。

2番(遊“手形入れ” という琉球・沖縄史上最悪の搾取が200年以上継続した。ちなみに手形入れとは間切や村を領有する地頭たちの生活物資を領民達が提供する義務のことで、市場価格で物資を調達し、格安で地頭に販売しなければならなかった。しかも地頭への販売価格が数百年間改定されなかったなおこの案件、歴史学者は絶対と言っていいぐらい触れない。

3番(中)18世紀に先島地方において “道きり法” が施行された。野底マーペーの物語でも有名な話も、

権力によって “血縁関係” が無理やり引き離されて

石垣島へ強制移住が行われた史上最悪レベルの畜生案件。

4番(投)1861年に銅銭と鉄銭の交換比率が改定された。その結果鉄銭の価値が暴落し、1868年には鉄銭の価値は32分の1まで下がってしまう。琉球の経済は鉄銭に依存する部分が大きかったため、経済が大打撃を受けたにも係らず、

1866年に琉球王府はは巨額の費用を擁して冊封を行った。

5番(捕)文替わりの結果、鉄銭の価値が暴落したにも係らず、

王府は農民から黒糖を鉄銭で買いとった。

6番(右)琉球藩に封じられた直後に、明治政府が減税措置を講じるも、琉球王府は従来の税率で住民から貢租を徴収した。

しかも減税分を還元した形跡がみられない。

7番(左税制がとにかく不均等。その最たるものが宮古・八重山の人頭税。宮古・八重山に対して王府は一環して征服者としての立場で統治した。

8番(一)”10月風は餓死” という “ソテツ地獄” なんて目じゃない無茶苦茶な言い伝えがあった。理由は旧暦10月に台風等の風害を受けると季節・気候の関係上農作目の損害回復が甚だしく遅れる→その結果餓死者続出の流れから(比嘉朝潮著 『沖縄の歴史』より)

9番(三)琉球王国の士族は、王府に仕官すると数年間は無給で業務しなければならない。数年勤務(場合によっては10年)してはじめてボーナスが支給される給与システムだったが、その間の生活費等は奥さんの商業活動で補ったものの、

それでも足りないため汚職が常態化した。

(具体的には年貢徴収のときに農民から不当に搾取した)

補欠 琉球王国末期は間切のほとんどが破産状態。

補欠 琉球王国の士族(男性)の学問は、漢学(四書五経等)中心。だがしかし仁の心(身分の分け隔てなく、他人をいつくしむ心のこと)で領民に接した支配者が存在した形跡がない。

補欠 農民は農作物を自由に栽培できなかった(作付制限)。しかも蔡温の時代から農作業以外に従事することを禁止されたため、事実上の農奴の地位に転落してしまった。

補欠 宜湾朝保さん曰く、「琉球の米は品質が悪く、薩摩への貢米は外米を購入して納付している」。

補欠 農村において台風等の自然災害の影響で凶作などの甚大な被害が生じた際は、初年度だけ免訴、2年目からは通常に貢租を徴収という無理ゲーを領民に課していた。