2017年6月19日の琉球新報の「論壇」に掲載された記事全文をアップします。投稿者は与那嶺恵子さん、大学教員との記述があります。
「永久敗戦論」で白井聡氏は、昨今の日本を「知性の劣化」があると言う。確かにネトウヨやフェイクニュースに影響される若者だけでなく、日本人全体の物事の捉え方が表層的で思考放棄の感がある、専門家はその風潮を「反知性主義の時代」と評する。反知性とは「知的な生き方やそれに代表する人々に対する憤りと疑惑」と定義される。米国でのトランプ支持現象にあったのかもしれない。しかし、今の日本人の反知性は、知識人に対する大衆の反感ではなく、大衆を含め政治家やジャーナリスト等知識人であるべき人々にも広がる思考力低下と定義したい。本来の反知性には鋭い批判や正義もあった。が、今の人々は常識や情報に富んでいるが、物事の本質を捉える力に欠け権力に従順な傾向がある。
加計学園問題で菅良二今治市長が、文科省での「総理の意向」と書かれた文書の存在を告発した前川喜平前事務次官に対し「守秘義務違反で公務員道に外れる」と批判した。公務員は名称の通り公(国民)に奉仕すべきであるが、その国民に開示すべき情報を隠蔽する官邸への忠義に欠けると批判する。公務員の定義も知らない市長を持つ今治市が気の毒だ。文書の存在を認める文科省官僚に対し義家弘介副大臣も「守秘義務違反で処罰」と威嚇し、政治家が奉仕すべきは国民でなく上司の総理だと従順ぶりを示して恥じない。
問題隠しのため美辞麗句を駆使する政治家の発言が論理力欠如になるのは帰結で、同調する未熟な、あるいは確信犯のジャーナリストもいるが、それらに惑わされ物事の本質を把握できない人も多い、それが現在の日本の「反知性」だ。
沖縄で尊敬される野球界の指導者の「辺野古移設等決定事項に従わない沖縄人は問題、地元紙のプロパガンダ的洗脳が怖い、常識あるさわやかな沖縄になって」との産経新聞上の発言も一例だ。移設決定が県民総意を裏切ってなされた、地元紙が沖縄の歴史を反映してきたことへの認識がない。
常識クイズが大好きな日本人だが物事の本質を捉える力が不足と常々感じてきた。日米の占領下で苦難の歴史を持つ沖縄人は例外と思っていたがそうでもないようだ。義家副大臣の発言に対する自由党の森裕子議員の感情を露にした問いを感情的と批判した女性議員の姿勢も、大事より些末を問題にする反知性だ。
人権や自由が抑圧された情報隠蔽が続き、国連特別報告員に警告を受ける今の日本でさわやかな沖縄人や上品な女性でいるより、怒れる沖縄女性でありたい。(那覇市、大学教員、63歳)。
投稿者は「今の日本人の反知性は、知識人に対する大衆の反感ではなく、大衆を含め政治家やジャーナリスト等知識人であるべき人々にも広がる思考力低下」と定義していますが、この文章を一読した感想は「知性ある人間の書く文章ではありません」になります。はっきり言えば「下手くそ」です。理由は何度読んでも投稿者の真意が掴みにくく、本当に知性ある人ならもっと分かり易く文章を纏めることができるからです。
ただしこの投稿で確信したのは、5月22日の産経新聞に掲載された現興南高校野球部監督の我喜屋優氏のインタビューに対して、琉球新報社が不快感を持っていることです。新報社として公然と反論できないタイミングのため(夏の甲子園県予選を控えているから)、読者からの投稿として社の意向を表明したと考えて間違いありません。
参考までに67年前の社説ですが、本当に知性溢れる人物の書いた文章を掲載しますので、ご参照ください(終わり)。
婦人ボスを追放せよ。
知事、議員の公選が発表されるや、婦連が婦人課を提携して、婦人の政治啓蒙活動に乗り出した。そのことは、その成果は別としても、婦人の政治に対する関心を高め、生活を政治に結びつけるための最初の試みとして、非常に期待されるものがあった。
ところが、選挙戦が、単なる人身攻撃に終始するような泥仕合となり、まったく醜悪な様相を呈するようになって、婦連幹部もまた、一候補のためにする言動をあえてして、何ら恥じるところのない醜悪ぶりを発揮するに至ったことは、一体、何を示唆するだろうか。もちろん、婦人一人一人が、個人あるいは特定の候補者を支持することは、何らとがむべきことではないが、いやしくも婦連幹部の肩書きをもつ人たちが、特定の候補者のお先棒をかついで、説いて回ることが、客観的にみて、正しい行為であるとは考えられない。政治の場合は、個人と公人を区別して、個人としての立場からやったなどということは、まったく無意味である。なぜならば、彼らの言動の効果は、彼らのもつ公的肩書きによって、倍加されるからである。
婦連は、決して政治団体ではない。それは啓蒙団体である、できれば、婦人問題や生活問題の相談所でありたいものである。もしも、婦人問題や生活問題が、単なる協議団体としても、現在の婦連組織機構ではモノ足りないということがわかれば各婦人が、政党またはその他の政治団体に加入して、大いに政治運動を展開すべきであり、それがまた、もっとも、合理的な方法である。ところが、婦連幹部の一部が、政治的な見解を一つにし、その政治的な見解を総会にもかけずに、あたかも、婦連の政治的見解であるように思わしめることは、邪道である。なぜならば、婦連に属する婦人一人一人の見解は、各々異なる筈であり、従って、どの候補者を支持するかは、それぞれ異なるからである。
婦連の幹部たちにとって大切なことは、一人の候補者を後生大事に守って、あわよくば、恩典にあずかることでは決してない。百万大衆の半分は女性であり、しかも、このしいたげられた女性たちを、社会的に解放し、政治的に訓練すること以外に、婦連の進むべき道はない。しかも、この道たるや一人の知事によって、一挙に解決されるものでもなく、婦人一人一人の自覚が高まって、婦人の下から燃え上がる力によってしか、真の解決はできないのである。そのためには、婦連の幹部一人一人が、不屈の魂と美しい愛情をもって婦人に接し、あるいは彼らの悲しみを分けあってこそ、女性解放への道は開かれるのである。しかも、この真実一路の道たるや、幹部自ら率先して、自ら範を垂れるべきである。しかるに一候補者のために、ウツツを抜かして、女性たちの悲運を打開しようとしない口先だけの幹部が、沖縄の婦人運動を指導しているのかと思うと、まったく断腸の思いがする。
また、これらの不徳の指導者たちにそそのかされて、まったく反省を忘れた若い女ボスのいることは、ますますもって不愉快である。一候補者に目をくれるよりも、ひねもす道路に坐って、野菜を売り雑貨を売っている女たちのことを、真剣に考えるべきである。自分の名を売らんがための女性政治家は、女性自身の手によって葬られるだろう。真剣に女性の不遇を取上げて、これを社会に訴えてこそ、真の女性大衆政治家であって、いたずらに、権威とカネにこびるような指導者は、パンパンよりも悪いまったくの婦人ボスであって、かかる人種がのさばっているようでは、沖縄女性の恥である。こんな幹部たちは、女性自身の手で、一日も早く葬り去るべきである。(1950.09.03、沖縄ヘラルド新聞社説、西銘順治)