琉球人と二重思考

前回の記事において、喜屋武幸雄さんの証言を元に、アメリカ世時代における琉球住民の「二重思考」について言及しました。今回は、令和05年07月12日、13日付琉球新報に掲載された野村浩也氏の論文「制度的差別を問う ㊤㊦」を元に、現代における「二重思考」について考察します。

ここで改めて強調しておきますが、二重思考はりうきう独自のものではなく、人類が抱える強烈な「生存本能」に根差した普遍的な行動様式なのです。ただし、自分が二重思考の持ち主であることに気が付かずに “お気持ち表明” すると、思わぬ落とし穴にはまってしまうケースがあります。名護在住のりうきう芸人さん(現在市議)の言動がその典型例ですが、野村氏の論文にも「二重思考の罠」があります。

※ブログ主は野村氏の論説を写本しつつ読み通しましたので、批評する資格はあると考えています。

実は、琉球新報に掲載された野村氏の論文には目新しい箇所はありません。具体的には「沖縄は差別されている」「日本によって米軍基地の負担を過重に背負わされている」との命題に基づき、琉球新報の購読者を意識しつつ野村流にアレンジした “お気持ち表明” なのです。なので、不定期に復帰前後から現代の新聞をチェックしてきたブログ主から見ると、“どこかでみた風景” であり、復帰から50年経過した現在でもこの手の論説を好む購読者が沖縄二紙を支えているんだなと痛感します。

ただし、復帰前後との違いは、野村氏の論説はあくまで「日本人に自覚を促す」内容に留めている点であり、フンサイ!とか革命!とか現代社会の秩序をひっくり返すような言動を慎んで文章をまとめている点が挙げられます。この辺りは一般紙の購読者を強く意識したこと間違いなく、個人的にはよくできた論文だと考えています。

この論説でブログ主が最も興味を引いた箇所に、野村氏が日本人(やまとぅんちゅ)と琉球人(うちなーんちゅ)を区別するために、琉球人は日本国民と呼ばなければならないと言及した点です。それはつまり日本国による民主的帝国主義政策によって、日本国内には差別者(日本人)と、被差別者(琉球人)が存在するとのモデルを明示するために、このような区分を持ち出しています。

そしてこの区分に従うと、野村氏は日本国民である琉球人となり、日本人とは区別されます。したがって彼も日本国による民主的帝国主義政策の「被害者」であると見做すことができます。

※参考までに琉球人のワードには “目覚めた” との意味も含まれます。(目覚めていない)沖縄県民の「対語」になりますが、この点については後日改めて言及します。

ただし、野村氏は日本国民として「三大義務(就学・納税・勤労)」を忠実に果たしているがゆえに、広島の大学で教授として勤めているわけであり、この事実は無視することはできません。つまり日本人だろうが日本国民だろうが、三大義務を果たすことで日本国の国力に貢献しているわけです。

つまり、彼は琉球人としての差別される立場と、国力を支える一員として沖縄における民主的帝国主義政策に貢献する、いわば被害者と加害者の二つを保持しているわけです。誤解を恐れずにハッキリいうと、彼は己が抱える琉球人としての信念と、日本国民としての義務を果たすことに対し葛藤を生じていません。

これが典型的な二重思考の行動様式なのです。

前回の記事で紹介した喜屋武幸雄さんとの違いは、喜屋武さんは(自ら抱える)二重思考について戸惑いを覚えていますが、野村氏はブログ主が見た限り(二重思考を抱えていることすら)認識していないように思えます。それゆえにこの手のタイプは相手にするのが非常にやっかりであり、ついうっかり二重思考の愚をつつくと手が付けられなくなります。それゆえに二重思考(認識なし)に対する手段はただ一つ、

オバーは頭悪いから何言っているかわからんさー

のうちなーの十八番で遠くから生暖かく見守るのが一番と断言して、今回の記事を終えます。

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