以前、ツイッターをチェックしている際に、11月13日付の沖縄タイムス社の阿部岳記者のツイートが目に留まりましたので全文を書き写します。
”尊敬する歴史家から「為政者の悪行は石碑に刻んで、100年、200年後の子どもたちに伝えるべきだ」という話を聞いた。”
この尊敬する歴史家が誰か記載はありませんが、ここはひとつブログ主が『球陽』を参照に為政者の悪行を紹介しますので読者のみなさん是非ご参照ください。
前に”黑い首里城”と題して首里城再建に関する記事を掲載しました。改めて説明すると1709年の丑年の大飢饉から10年後に首里城再建および冊封を行い、国富をすべて使い果たした”酷使無双”の内容ですが、今回は補足として17世紀における通貨事情について説明します。
当時の通貨に関しては、東恩納寛惇先生の論説や『球陽』などを調べましたが、『沖縄大百科事典』(沖縄タイムス社編纂)から該当箇所を引用します。
通貨制度
【前近代】琉球において通用した貨幣は、主として中国および日本で鋳造されたものである(のちには琉球で鋳造した鳩目銭もある)。国内の商品経済が未発達のため、古くは海外貿易の決済などに、近世では首里・那覇などの都会地を中心に、部分的に通用した。中国明代の初めに明帝から永楽通宝などの銅銭(明銭)が給賜された例もあり、福建・東南アジア諸国との貿易にも中国銭が使用されたと思われる。『李朝実録』の朝鮮漂流民の見聞に〈銅貨は中原(中国)より得て、これを用う〉〈銅銭を用う〉などと記されているから、諸外国の貿易船が来集した那覇でも中国銭が通用していたのであろう。16世紀になると、これらの明銭は博多商人の持ち込んだ鐚銭(びたせん)に入れ替わる。1534年(尚清8)の冊封使陳侃の使録に〈通国の貿易は、ただ日本鋳るところの銅銭を用う。薄小にして無文…〉と記されているが、これは本土での撰銭令の影響で中央を駆逐されたカケ銭・コロ銭の類といわれる。
鳩目銭は、1626年(尚豊6)ごろ薩摩から申し請けたのに始まるといわれ、56年(尚質9)には当間重陳が薩摩の加治木銭を鳩目銭に改鋳(当間銭)。62年(尚質15)には鳩目銭と本土から流入した京銭(鐚銭)を併用して通用させ、また99年(尚貞31)には鳩目銭1000枚を封印して1貫文とし、これを通用させた。1716年(尚敬4)には冊封使来琉に備えて、王城内で鳩目銭11万貫を鋳造している。なお琉球の銭勘定の基本は鳩目銭本位である。『中山伝信録』や『琉球国志略』に記されているように、近世でもっとも広く通用した貨幣は寛永通宝(銅銭)で、17世紀末ごろから流入したといわれる。この銅銭および鉄銭はともに鳩目銭50文に相当した。そのほか、もっぱら中国貿易に使用される一両中国銀・小判分金などの金銀貨もあったといわれ、『旧琉球藩貨幣考』(沖縄県史第21巻所収)には天保通宝・文久通宝、乾隆通宝・道光通宝・咸豊通宝・嘉慶通宝・金丸世宝など25種余りの流通銭が紹介されている。
大雑把に説明すると、17世紀には経済の膨張に対応すべく通貨を供給する必要があったこと、そのために従来通用していた京銭(きんせん)のほかに鳩目銭(はとめせん)と呼ばれた通貨を併用していたことになります。ちなみに鳩目銭に関する記述は下記引用をご参照ください。
鳩目銭 はとめせん
(中略)古くは1個ずつ通用していたのを、99年(尚質31)何十個をつらねて緡(銭繩)に結び、重さを一定にして封印し、鳩目銭50枚で1文、500枚で1銭、1000枚で2銭にあてたという。琉球では銅銭は銭、鳩目銭は分、あるいは琉目いくらと記す。
引用:沖縄大百科事典(沖縄タイムス社編纂)より。
つまり京銭1文に対して鳩目銭50枚というレートがあり、この交換比率に落ち着くまでの経緯は割愛しますが、京銭1枚に対して鳩目銭の価値が非常に低いことに注目してください。その理由は鳩目銭が粗悪で壊れやすいため、最終的に50対1のレートで通用するようになったのです。
京銭の使用禁止
ところが1703(尚貞34)年に薩摩より京銭の使用禁止令が言い渡されます。
三十四年 禁用京錢 素用中華錢後用鳩目錢與京錢交以通用是年禁用京錢而送還之于日本焉(京錢ヲ用フルを禁ス 素ヨリ中華錢ヲ用ヒ後ニ鳩目錢ト京錢ト交ヘテ以テ通用ス是年京錢ヲ用フルヲ禁シテ之レヲ日本ニ送還ス)
引用:球陽附巻二 尚貞王より抜粋
実は、これとんでもない悪令なんです。その理由を説明すると、鳩目銭の信用は琉球王府が保証しているのではなく、京銭との交換が可能だったからです。古代の通貨は”銭それ自身が価値を持つ”が原則なので、琉球内の京銭(銅)を撤去して鳩目銭だけを通用したら間違いなく市場は混乱します。
しかも鳩目銭は壊れやすいので年々通貨量が目減りする欠点があります。つまり”信用度が低く通貨量も減少する貨幣だけを使え”という状況になると貨幣経済はまともに作動するわけありません。人体でたとえると貧血かつ血液不足の状態なのです。ブログ主はこの命令によって当時の琉球社会は貨幣経済から物々交換の経済に逆戻りする流れになったと考えていますが、この6年後に丑年の大飢饉が発生するのです。
瀕死の琉球社会
通貨の信用度があまりに低いため貨幣経済が正常に動作しない状況で大飢饉が発生したらどうなるか。人体にたとえると貧血&血液不足の状態で栄養失調に陥る状態となり、適切な治療を施さないと死んでしまいます。
このような最悪のタイミングで当時の為政者は1719年に冊封を行い、それにあわせて首里城を再建したのです。
ここまで説明すれば王府によって民間がどれだけ酷使されたかはお察しかと思います。当時の為政者の一人に蔡温さんがいますが、後に彼が政治に苦労するのも当たり前の話で、どんな名医でもゾンビを蘇生させることはできません。
いかに三度目の首里城再建が無茶苦茶な出来事だったのか、その後琉球経済が立ち直れなくなったかがお分かりでしょうか。これまでざっと琉球王府の鬼畜所業について記載してきましたが、ブログ主は「為政者の悪行は云々」と唱えた歴史家に対して、グレタ・トゥーンベリさんのように
How dare you !(よくもそんなことが言えるわね)
と大声で叫びたい気持ちでいっぱいになりました。(終わり)