瀬長亀次郎さんが決して口外しなかったこと

2017年8月12日に佐古忠彦監督、TBSテレビが製作したドキュメンタリー『米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー』が公開されました。ちなみにブログ主はこの映画は未だ見ていませんが、その間に『瀬長亀次郎回回想録』など瀬長さん関連の書籍をいろいろチェックしていました。

瀬長さんのキャッチフレーズである「不屈」は人民党が結成した昭和22年(1947)から日本共産党に合流する昭和48年(1973)の間に好んで使っていた言葉で、現在もそのイメージが強いのですが、ブログ主がいろいろ調べているうちに瀬長さんが決して口外しないワードが複数あることに気がつきました。それは現時点で確認できたのが3つあって

一 大政翼賛会沖縄県支部壮年団

一 国場幸太郎(国場組の創始者である幸太郎氏とは別人、1950年代の人民党の活動家)

一 又吉康和(またよし・こうわ)

になります。ちなみに戦前・戦後を生きた世代には瀬長亀次郎さんが大政翼賛会の壮年団に所属していたことは良く知られていました。理由は当時の翼賛壮年団は地域の名士や著名人がこぞって参加していたからで、それゆえ戦後も参加メンバーの経歴に傷がつくことはありませんでした。たとえば翼賛壮年団長の平良辰雄(たいら・たつお)氏は戦後に、沖縄群島知事に当選しますし、翼賛会沖縄支部の事務局長であった当間重剛氏は、後に琉球政府の主席に任命されます。

ほかにも高嶺朝光(たかみね・ちょうこう)氏や翁長助静(おなが・じょせい)さんも参加していて、それぞれ当時の体験について語っていますが、ずっとだんまりを決めているのは瀬長さんだけです。

瀬長さんが翼賛壮年団に加入した理由は、ブログ主が推測すると

一 壮年団長を務めた平良辰雄さんに対する恩義があったこと

一 特別高等警察のマークを避けるため

になりましょうか。昭和15年(1940)に中国戦線から復員した瀬長さんは、平良辰雄さんが会長を務める県産業組合連合会に所属しますが、平良さんは特別高等警察の干渉をはねつけて瀬長さんを雇用しました(加工課長というポストまで作って瀬長さんをかばった)。その恩義に報いるために翼賛壮年団に加入したと考えられます。

ちなみに当間重剛氏は回想録でこのように述べています(1956年11月20日、主席就任式後のパーティーでの演説)。

「私に党籍はない。それが問題である。しかしながら、私は沖縄の場合は党籍にこだわる必要はないと思う。沖縄の問題は戦災から起ち上がって、いかにして復興するかというのが一番の問題であり、そのかぎりにおいてはどの政党も目的は同じであり、したがって私はどの政党からも協力を得られると信じている……ただ瀬長亀次郎君は正面から反対しているが、今をときめく彼でさえ、戦争中は生命が危ないものだから、翼賛壮年団の総務になってお国のために働いていた。(略)」

当間氏は大政翼賛会沖縄支部の事実上のトップでしたから、この発言は信憑性あると考えても構わないでしょう。だからこそ瀬長さんとその支持者は翼賛壮年団に加入していた事実をこの世から抹殺したい気分になるのもまたやむを得ないのかもしれません(続く)。