◎朝鮮人は 白衣(麻○絹)を着、異様の帽子を戴き、何んとなく神代ゆきたる感あり。朝鮮鞋(=靴)又甚だ面白し。士族以上の女は頭より衣服を被(かぶ)り居れり、之又甚だ異様に感じぬ。始めて来たる日本人が遠望して「扨ても朝鮮は美人多き所よ」と思ひしに、よく見れば痘痕(朝鮮は痘痕の多き由)あとにて失敗せし話ありと〔云ふ〕。彼等は常に長き(三尺ばかり)烟管(えんかん=キセル)を持てり。あゝ之れ彼の国民をして懶情(らいだ)不活発となせし一原因か!
◎朝鮮の原野に至りては 我が原野にやゝ相似たり。又水田も多くありて自ら我が国に近づきたる感あり。然れども彼は自然にまかせ少しも顧みざるを以て、若し我が農夫の如く手入を施さんかこの二三倍も収穫あるべしと思ふ。又果物野菜類多き様に感じたり。
◎朝鮮の家屋に至りては 支那の家屋より一層小さく、大連旅順の大廈高楼(たいか・こうろう=大きな建物のこと)を見たる目にては殆んど住所とも思はれぬ程なり。京城(=ソウル)の如き首府すらなほ茅葺の数多あるを見る。若し日本町を取り去りたらんにはその半以上の光景を失ふならん。然し宮城は甚だ壮麗なり。火災に罹りし以来、皇帝陛下(純宗)は新宮城に御坐せ給ふ。今は草茫々と生ひ繁り只番人のみ残れり。
余はその建物の壮麗なるを見て今昔の感に堪へず。首を垂れて瞑目すること多時〔なりき〕。〔韓国〕統監府は案外に小なりき(韓国内閣の後の一部分を其のまゝ使用せり)。統監府は宮城と並んで壮麗に構へたきものなり。
◎朝鮮は 殆んど我が属邦の如き感あり。万事我が国に倣ひ、重要なる職には日本人皆之れに就けり。然して日本人が韓人を見るあまりに残忍 – 不親切 – なりと思ひぬ。吾等が平壌に着きし時旅館の番頭に停車場まで迎えられ旅館までは五町(約540㍍)も離りたればとて荷物は彼に持たせぬ。余は彼等の力と忍耐とに感じぬ。彼等は彼等が持〔ち〕得るだけ持てり。然して休まんと欲すれば冷淡なる番頭先生は却て其遅きことを叱り休むことを得ず。彼等は玉なす汗を拭(ぬぐ)ふ暇もなく、後に従ふて急ぐ其の様牛馬に於けるが如し。それのみならず彼の番頭先生は韓国紳士さへ叱り居たり。ああ何たる酷い先生よと思へば、その翌日も斯くの如き有様を見たり。茲に至りて余は全く呆れ果てぬ。あゝ亡国の民の可憐さよ。余は一種云ひ難き感に打たれぬ。
なほ総ての都会の商業地 – 良き場所 – は皆日本人に占領され、あはれ韓人は片隅に逐はれ居たり。あゝ之れ生存競争を現出せるにあらずや。
◎余は半面に於て 満韓の地の壮景我が範囲に入りたるを喜ぶと共に、又他の半面に於て清国の〔衰微〕の状を見、韓国の貧弱の哀れむべきを思ふて、之も謂われぬ感に打れたり。
吁(ああ)三千年の昔にあつては文化を世界に誇り、自ら中華と称せし国の今は只この形骸をとどめ、満州我が手に入り其他各要地は他の強国に侵食せらるるなど実の悽惨の事ならずや。これ国民の罪か、そも〃天道の循環か、また如何にともすべからざる敵か!これを思ひ彼れを思へば実に感慨に堪ざりき。
要するに満韓の地は吾人の活動すべき最好舞台なり。吾等は須(すべから)く彼の地に至りて我が国威を発展すべし。余は満韓の地を跋渉(ばっしょう)して昨年のポーツマウース〔条約〕の失敗の敢て悔べからざるを悟り、又活動の観念を深く我が脳裏に印象せり。(明治39年9月22日付琉球新報1面)