深淵を除いてしまった時

平成28(2016)年5月19日に当運営ブログは第一号記事を配信し、本日めでたく “893回目の記事” をアップすることになりました。これもひとえに読者様のお力添えとご支持の賜物であり、今後もご期待に添えるよう良質の記事を配信する所存であります。

堅苦しい挨拶はここまでにして、実は約1カ月前から893回目のネタ探しで非常に苦労していましたが、偶然にも節目にふさわしい史料を入手しましたので紹介します。昭和42年10月19日、田場盛孝(普天間派)が自宅で射殺された事件がありましたが、当日の記事(琉球新報夕刊)の一部を書き写しました。ぜひご参照ください。(ちなみにこの射殺現場は今日も現存しているため、場所が特定できないよう一部修正を施しています。)

田場大幹部(普天間派)射殺される

カービンや短銃で /自宅で / 犯人の3人は逃走

【宜野湾】19日午前10時ごろ、宜野湾市普天間●●●の●暴力団普天間派大幹部田場盛孝(39)が、自宅の寝室でカービン銃や短銃を持った山原派組員とみられる3人の青年に頭部をねらい撃ちされ、具志川村の中部病院に運ばれたが、間もなく死んだ。訴えで普天間署の全署員が出動、現場付近の捜査を進めるとともに同署管内の各道路に非常線を張り、犯人の逃走を防いでいるが、まだ逮捕されていない。知らせをうけた警察本部からも新垣本部長ら幹部数人が姿をみせ、現場はものものしい空気に包まれている。普天間派と山原派、那覇派の抗争は激化するばかりだったが、ついに普天間派の最高幹部が射殺される事件にまで発展した。

目撃者の話によると田場宅の道路向かいにある●●●●●●の路地からブルーの乗用車で付近のスキをうかがいながら乗りつけ階段をかけあがって2階に向かった。しばらくして銃声2発を聞いた。その後男たちはもの音でかけつけた普天間派組員らに追跡されながら乗りつけた車でもときた道を中部商業高校方面へ向け逃走した。

ちょうどその時刻は田場宅もよろい戸をおろし1階のアジトに泊まり込んでいた組員も銃声をきくまでは気づかなかったという。女中と田場の妹のあわただしいもの音を聞いて奥の台所から2階にかけ上がろうとしたが、待ちうけていた男たちに短銃をつきつけられたので口もきけなかったという。

田場は即死状態のまま中部病院に運ばれ、着いて間もなく死んだ。死因は頭の左こめかみを銃弾で一撃されている。(昭和42年10月19日付琉球新報夕刊3面)

参考までに、同年11月25日に普天間派幹部・村山吉松(28)が遺族と相談の上、普天間派の解散を公式に宣言して那覇・山原派との抗争は終結します。そしてこの事件を受けて、遺族が新聞に訃報を掲載します。社説などで “暴力追放” を唱えながら、激烈な抗争を引き起こした張本人の訃報を載せるあたり、新聞社の本音が伺えてきわめて興味深いのですが、試しに同年10月20日付琉球新報11面に掲載されたお悔やみ広告を紹介します。

最初は何気なく目を通したブログ主ですが、友人代表の欄を見たときに腰を抜かさんばかりに驚きました。

お気づきいただけましたか。参考までにアップした画像を貼り付けます。

もちろん当人が既にお亡くなりになっているため、現時点で真偽を証明することはできません。だがしかし、このお悔やみ広告を見たブログ主は、

アメリカ世の闇は、ブログ主の想像以上に深い

と沖縄県立図書館で愕然とした次第であります。(終わり)