沖繩の魂未だ死せず

今回は昭和26年(1951年)9月23日付琉球新報の社説を紹介します。当ブログにおいて既に紹介しましたが、同年9月10日付でうるま新報から琉球新報に復元改題後間もない時期に「沖縄の魂未だ死せず」と銘打った社説が掲載されたことにブログ主は感動を覚えました。理由は民族的な意味を含む形で”沖縄”という単語を使用しているからです。

当時の新聞を参照して印象的なのは、”沖縄”という単語を使用する際の独特の緊張感です。米国民政府の施政権下の元では”琉球”を率先して使用していた時代であり、例えば以前当ブログで紹介した沖縄タイムスの社説「琉球の歸属」では沖縄という単語はたった一回しか使用されていません。地名や歴史・文化面での使用は兎も角、政治や民族的な意味を含む形で”沖縄”という語句の使用は米国民政府を刺激する恐れがあり、政府要人は固より一般住民もその使用を控える社会状況でした。

しかも沖縄民政府の副知事時代に「アメリカ・ウトゥルー(アメリカ恐怖症)」と陰口を叩かれ続けた又吉康和社長が琉球新報の社長に就任して間もなくこの社説が掲載されたのです。社説そのものは青少年の逞しさを称賛する内容ですが、”沖縄”という語句には明らかに民族意識を感じます。又吉社長、そして琉球新報社員の言論人としての矜持に心から感動を覚えつつ、この偉大なる先輩たちを誇りに思う気持ちを隠すことはできません。社説全文を書き写しましたので、読者の皆さん是非ご参照ください。

沖繩の魂未だ死せず

戦後青少年のモラルの問題が多くの識者によつて論じられ且つ彼らの将来について憂慮されたものである。これは多くの事例から生じたことで無理のないことでもあつた。

しかしながら若き世代は石にひしがれた雑草の如く生活力がおう盛で、これらの心配がすべてき憂に終るようである。最近の各方面に観られる青少年の立ち直りがこれを裏づけているのである。那覇学校美術協会と本社の共同主催による初中高生徒の写生大会はこの意味で極めて重要な意義をもつものである。

沖繩の時代を負う青少年のたましいが如何にはつらつとして育ちつつあることを感じてすべての審査員は驚きと悦びの声を一斉にあげたものである。如何なる悪循環にもめげずに伸びる若い生命は機会と手段さえ与えられれば、直ちに製作意慾を発揮し立派な収穫を実現し得ることを知ることは何物にも増して心の励まされるものである。

今度の写生大会は沖繩全島にかく大され各高校地域を単位として各地区写生会が催されたのであるが、これに参加した総人員は実に一万を突破、未曽有の教育行事となつたものである。これは全く学校美術協会会員の熱と努力の賜物であり、また参加各学校の文化的関心の表れでもある。

富める者には金にものを言わせることも出来るが、貧しきものは才能と努力に生きる外はない。このやせ枯れたさんごしように育つたわれわれ沖縄人は、自らの才能を十二分に伸ばせることによつてのみ世界人の間に伍していけるのであつて、これが教育の基本線であることは言うまでもない。

作るべき田も畑も十分にもたない沖縄人には、詩を作り美を生み出すということは決して軽視すべきではない。これはたましいの表現であり、沖縄人の文化的尺度にもなるのであつて、これを忘れてはついに世界人と肩を並べることは出来ないであろう。

写生会による美的創作活動はこれだけに止まるものではもち論ない。これは直ちに精神活動の他の部面にも効用を持つものであり、その才能は同時に工作面において、また各産業面にも実を結ぶものである。

ただ目前の利得のみに心をとらわれる者には大きい発展は望み難いものであつて、たましいを育みこれが広く根を張るときには大きい困難にも敗退することはない。余りに文化的感覚が稀薄であつたがために日本の政治は敗北に終り、今日の悲劇を生んだことをわれわれはあらためて反省すべきである。

外界の暗さにやゝともすればおうわれそうになる現在の沖縄では、沖縄人の内にひそむ才能を発見することのみが沖縄人自身を激励するのである。すべての方面においてわれわれはこの事を心掛けねばならぬ。

引用:1951年9月23日付琉球新報