沖縄県民の本質

今回は昭和27(1952)年11月14日付琉球新報に掲載された社説「琉球と現実」について言及します。ブログ主が確認した限りではありますが、ここまで沖縄県民の本質をズバリ指摘した言説はちょっと見当たりません。昭和27年当時とはいえ現代の沖縄県民にも通ずる内容で、当時の言論人のレベルの高さを伺い知ることもできる貴重な史料です。

「現実主義の意味を実利主義ないし利己主義と混同してはならない。琉球人は生活を愛する。そうしたところから民衆は急激な変化に対しては抵抗する。つまりその点において保守的であるが、それでも現状について不満をもつているという面からいえば進歩であつて改革を愛する。生活に執着するという意味において民衆は現実主義者なのである。」との指摘はまさにその通りであって、この範囲を超える改革案を本能的に拒否する傾向は現代も同じです。社説内の”謝花昇の民権論”を”琉球独立論”に置き換えてみると理解できる筈です。

この社説はおそらく又吉康和社長自ら執筆したとブログ主は推測します。琉球・沖縄の歴史や文化に造詣が深くかつ現実主義者であった又吉さんならこの社説を執筆してもおかしくはありません。もちろん単なる米国民政府への追従から社説を掲載した訳でもありません。読者の皆さん、是非ご参照ください。

社説 琉球と現実主義

廃藩置県前の話だがひとりの日本人が猪狩りにでかける途中好奇心にかられて、その時分滞在していた中国人の宿泊しているところを見物しにいつたことがある。もともと琉球では中国に対する政策として日本との交通を秘みつにしていたのであつて、その日本人がかように中国人の宿泊所などに立寄るというのはそもそも政府の伝統的政策を破つたことに外ならなかつたが、さしあたり琉球で問題になつたのはこの事件によつてバクロしたかも知れない、日琉交通の秘密のことであつた。

そこで善後策として琉球政府は、翌日、猪狩りにゆくふん装の人間を中国人の宿泊所にさしつかわして昨日われわれの仲間のものが猪狩りの先発として出かけていつたが、この辺をとおつたと思うが見かけなかつたかとわざわざそういわせた。これは中国人をして、さては前日見て日本人と思うたのはこちらの誤解で、やはり琉球人に相違なかつたのだと考えなおさせようがための仕くみであつた。

以上は伊波普ゆう氏の「沖縄歴史物語」に出ているのを要約したものだが、表面的には子供だましのような芝居をした当時の人たちがコツケイに見えようとも一面、この事件にはひとつの意味がふくまれておるのではないかと思う。その意味とは何かといえば、琉球の社会に根ざしている現実尊重のけい向なのであつて、狩装飾の使者を仕たてて弁解とも質問ともつかぬことをいわしめたところに、ひとは現実主義的な政治の苦心のほどをみねばなるまい。そうした苦心によつて中日両大国の中間に僅かに独立を保つ余地をみつけていたのではなかつたか。

同じ現実主義的な考えかたは向象賢をして「日琉同祖論」を唱えしめ日本から新制度と諸芸能を採用せしめたと解されるのである。蔡温は向象賢とちがつて中国の思想に理解が深かつたと考えられる。それでもかれが「独物語」のうちで国家の政治のことを「くちた手縄」で馬をかるのにたとえていつたとき、蔡温がみたのは両大国に臣事する弱小な琉球の現実であつたとこのことは伊波普ゆう氏によつてすでに考証済になつている。

現実主義者であつたのは封建政治家のみではなく、琉球の民衆自体がそうであつた。現実主義の意味を実利主義ないし利己主義と混同してはならない。琉球人は生活を愛する。そうしたところから民衆は急激な変化に対しては抵抗する。つまりその点において保守的であるが、それでも現状について不満をもつているという面からいえば進歩であつて改革を愛する。生活に執着するという意味において民衆は現実主義者なのである。

琉球の社会にみられるかような強い現実主義的けい向を否定の契機においてとらえることが出来ないいかなる改新的運動も失敗する。沖縄民権運動の先駆者といわれている謝花昇の如きも沖縄人の現実的なものの考え方ということに注意するのを怠つて、いたずらに当時の奈良原知事をして名をなさしめただけで惨たる終末をつげた。謝花たちが威勢をふるつたのは「沖縄時論」創刊前後の二三年にすぎず、しかもそのものに集つたのは村長とか小学校教員などのそれも少数のいうに足りない程度の人員であつた。

だから謝花等の運動はこんにちからみると、その頃の首里と那覇に居住する士族階級にローダンされていた政治的特権のわけまえにあずかろうとする農民上層部の運動という特色を多分にもつていたのである。民権運動などといまでは美名で呼ばれているが、ぢぢつはもつとマズクて民衆はただおどろきとおそれの感情を抱いて、遠くから観望しているというのがその実情であつた。けだし現実主義的な民衆の要望になんら答えるところがなかつたからだ。

謝花たち以後、沖縄の政治は現実的な地盤からますます遊離していくけい向があり、そのいきおいはとどまらず戦後の現在にいたる。現実を直視してそれに対応する手段を講ずるということは、いかなる社会でもこれを強調する必要があるであろう。だが琉球の如き弱小な社会では、人はいかに現実主義者であつてもあり過ぎることはない。(昭和27年11月14日付琉球新報1面社説)