前回の記事で沖縄市のゲート通りおよび中央パークアベニューの散策レポートを掲載しましたが、今回は旧照屋黒人街(現在の沖縄市照屋1丁目の銀天街付近)の画像をアップします。琉球新報社編『ことばに見る沖縄戦後史』によると、「数年前(1965年前後)まで黒人兵が一晩に4~5百人も出入りしていたが」と記載がありますが、現在では当時の面影を見つけることすら難しい廃墟になっていました。当然黒人さんや韓国人女性の特殊婦人は見当たりません。では今回も調子に乗って突撃レポートを掲載します。
Google マップより現在の沖縄市照屋1丁目です。
・コザ銀天街入り口付近の画像です。壁画が見事です。
・銀天街入り口にある案内看板です。この説明によると銀天街の全盛期は1978年前後になります。
・黒人街として繁栄した看板もありました。「黒人の公民権運動と沖縄の本土復帰運動」の説明文は写本しましたので、是非ご参照ください。
黒人の公民権運動と沖縄の本土復帰運動
この時代、コザの街には、胡屋エリアに白人街、この壁画があるコザ十字路エリア(照屋)には黒人街がありました。
当時、アメリカ本国で人種差別を受けていた黒人もここ照屋では白人よりも幅を利かせ、黒人にとってはまさにユートピアだったそうです。
そして、アメリカ本国で起こった公民権運動のうねりはここ照屋黒人街にも広がり、「黒人は優れている」という意味の合言葉『ブラック・イズ・ビューティフル』が広まることとなります。
このような、黒人の文化や音楽、人種差別撤廃運動や公民権運動と直に触れたこの地域の若者は、自分たちの置かれている状況にフィードバックさせ、その後のコザ暴動(コザ騒動とも)や本土復帰運動へと繋がります。
・現在の銀天街内部と周辺を散策しましたが、残念ながら廃墟になっていました。
・銀天街内部の小道も散策しましたが、完全にシャッター街になっていました。
・夜の銀天街です。黒人さんはおろか地元住民もなかなか見かけません。
いかがでしょうか。照屋黒人街の全盛期は昭和35年(1960)前後ですので、現在ではその痕跡すら見つけることができませんでした。旧真栄原社交街と同様に廃墟と化している現実に寂しさを感じます。(終わり)
【追記】琉球新報編『ことばに見る沖縄戦後史』に白黒街の掲載がありました。全文掲載しますのでご参照ください(1971年2月琉球新報で掲載された記事です)
白黒街 根強い人種差別 60年ごろに対立表面化
基地の町コザに、黒人、白人街ができたのは終戦間もない1950年ごろ。いまは白人、黒人街といってもふしぎともなんとも思わなくなったが、初めのころは、そこを訪れるだれもが奇異に感じたにちがいない。「同じアメリカ人ではないか。皮膚の違いによってなぜ別個の町を持たなければならないのか」と。だが、米本国内での人種差別の根強いことを知ったとき、「やはり、できるべくしてできたものだ」と考えを新たにさせられる。白、黒の反目は宿命的ともいわれ、黒人街に白人が一歩でも足を踏み入れようものなら、袋だたきにされ、必ずといっていいほど衝突が起こる。
1970年8月、コザ市照屋の本町通りで起こった黒人暴動事件は、それをズバリ物語っている。絶えない黒人、白人のケンカ、ブラック・パワーを叫んでいる黒人の開放運動は米本国でエスカレート。歓楽街が少なかった終戦直後、アメリカ兵の慰安の場所だったコザ市の白、黒街もしだいに黒人、白人の対立の場へと変わっている。黒人問題とベトナム戦争は、いまアメリカにとって二つの大きなガンになっている。
肌の違いで差別
「人間は生まれながらにして自由であり、平等である」と標ぼうしている民主主義の国アメリカで、皮膚の違いだけで差別され、血を流すまでに反目し合っている事実は私たちにとって想像を絶するものがある。“米兵の町”で知られるコザにもいつの間にか白人街、黒人街とはっきり二つの町ができてしまった。市のちょうど中央部にあたる胡屋一帯に白人街。そこからおよそ2キロ離れた市のはずれ照屋に黒人街がある。
いずれもバーやキャバレーが立ち並び横文字が目につくが、建て物ばかり見てはなんの変わりばえもしない。だが、そこをかっぽする外人を見ると「あア、なるほど、そこが黒人街であっちが白人街か」と識別できる。照屋の黒人街、本町通りや新橋通りには黒人兵の姿が多く、MPの白人以外、町を歩くのは“黒人一色”だ。白人街で知られる胡屋のセンター通りやゲート通りには逆に“シロンボ”が群れをなしている。
1954年ごろ民間人に開放
なにも初めから「ここは黒人が出入りするところ、あそこは白人向きに」と沖縄人が決めてつくったのではなかった。彼らは自ら区別してしつらえたに過ぎない。
コザ市もいまは5万の人口をかかえ(1971年2月当時)、沖縄では那覇市に次ぐ二大都市のひとつ。終戦間もないことは越来村という一つの小さな村にすぎなかった。
市の中心街で外人の出入りが激しくにぎわっているシロンボ街のゲート通りや、センター通りの胡屋一帯は米軍基地として使用され、いまコザ市役所が建っている付近が海兵隊部隊。黒人が多かったため“クロンボ部隊”呼んでいた。中部病院があった胡屋はモーター・プールと兵たん部隊がおかれ、戦争が終わったあとも米軍のコンセット家屋が建っていたが、54年ごろ、民間人に開放された。
当時、町らしい町といえば嘉間良部落。そこには映画館や銀行、警察署、商店ができて最もにぎわっていた。近くに嘉手納空軍基地と海兵隊部落、モーター・プールがあったため、町がいきいきしていたのだろう。だが、米兵向けの歓楽街がまだどこにもなかった時分だけに、部隊から抜け出してきた米兵が民間地域にはいり込み、婦女子をねらってあばれ回った。
占領軍意識まるだし
“占領軍意識”マル出しで、米兵が婦女子を襲い、住民を恐怖におとし入れたころ、拉致事件が続出した。当時の越来村長は城間政善さん(現・城間学園長)だったが、「婦女子らを不安から守るためには外人相手の歓楽街を作らなければならない」ということで、八重島に初めてバー街ができた。いまは火が消えたようなゴースト・タウンにさびれてしまったが、50年代、八重島は“裏町”として昼夜の別がないほどにぎわった。
八重島に歓楽街ができたちょうどそのころ、照屋十字路(現在のコザ十字路)一帯にも町ができ始めた。美里村泡瀬へ抜けるコザ高校前は、ほとんど畑だったが、点々と家が建つにつれて飲み屋もできていった。おでん屋みたいな小さな店だったが、いまでは百軒近くのAサインバーや洋裁店が立ち並び、黒人街となっている。初めのころは八重島も照屋の歓楽街もクロンボ、シロンボの区別なくチャンポンで遊び歩いていた。
米兵らは勝ちいくさに酔っていたのだろう。時間がたつにつれ、そろそろ皮膚の違いを意識、白人、黒人の対立が目立ってふえてきた。この人種差別は、照屋十字路を境にコザ高校寄りの新橋通りと本町通りが黒人街、美里の方が白人の町になっていた。
そのうち米軍基地であった胡屋付近が民間に開放されたため、しだいに町が形成された。八重島はやはり“うら町”。胡屋が解放されると、次々バーが建って米兵の足は胡屋のほうに移るようになった。
復帰前に町の形態も変化
沖縄で白黒の対立が表面にさらけ出されてきたのは60年ごろから。照屋の新橋通りで起こった白黒のケンカが起因だが、それをキッカケに白人は照屋の歓楽街をさけ、胡屋のセンター通りとゲート通りに集まるようになった。
そこから照屋の特飲街を黒人街、胡屋のゲート通りとセンター通りを白人街と呼ぶようになった。結構、白黒の二つの町として、これまでにぎわってきたが、沖縄の祖国復帰が近づくにつれ、町の形態も大きく変わろうとしている。2~3年前から米兵の客足がにぶってきた。とくに黒人街の場合はひどく、Aサイン業者のなかには経営不振で転業する人も出てきているほど。
米軍相手の商売に見切り
黒人街の照屋Aサイン組合・島袋兼徳さん(46)は、「数年前まで黒人兵が一晩に4~5百人も出入りしていたが、最近は出足がにぶく全く商売にならない。70年8月、本町通りで発生した黒人暴動からは、とくにひどくなっている。黒人街も金武や辺野古などにもできたので、経営は完全にお手上げの状態だ。以前は黒人の町と呼んでもよかった。だが、いまでは黒人街と呼ばれたくない。復帰に備えて、早く黒人街から脱皮、沖縄住民相手の町にするほかによい方法はないですヨ」と、米軍相手の商売に早くも見切りをつけたようす。
一方の白人街のセンター通りやゲート通りはそれほどまでではないが、70年末のコザ反米騒動以後、白人客が減ったといわれ、ここの業者も、やはり同じ基地経済で暮らしている深刻な悩みをかこっている。(1971年2月)
復帰後 ベトナム戦争によるアメリカ経済の疲弊やドルショックにより沖縄の基地経済にもかげりが見えてきた。基地の街コザもそのあおりをまともに受け不況にあえぐことになった。これを機会に基地依存の体質からの脱却を目指して1974年4月、コザは「沖縄市」に以降、街の活性化を試みる。かつての米兵たちの盛り場であったBC通りも横文字の目立つ飲食街から、こぎれいなロックとショッピングの街というイメージを前面に出した「中央パークアベニュー」へと様変わりし、観光客やヤングの耳目を集めている。
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