沖縄ヤクザ関連の蒐集したエピソードを適当にならべてみた – その2

以前、沖縄ヤクザに関するエピソードを当ブログにて紹介しました。この記事は予想の斜め上をいく反響があり、調子に乗ったブログ主が現時点で蒐集したエピソードを掲載します。ちなみに沖縄ヤクザの歴史に興味を持った理由はただひとつ、以前にも指摘しましたが大日本帝国時代にはアウトローを束ねる組織がなかったからです。

つまり大東亜戦争敗北により、沖縄が米国の施政権下になったことで生じた産物の一つなのです。こういうところをこまめにチェックすると歴史教科書では見えてこない復帰前(あるいは直後)の沖縄社会の “真実” を察知できるのが実に興味深いです。余談はここまでにしてさっそくですがアングラネタ好きな読者の皆さん、是非ご参照ください(今回は武器関係のお話)。

※令和05年01月28日、サイト内整理に伴い、一部加筆・修正済。訂正を加えた分は青地で表記しています。

・コザ派、那覇派などの呼び名は沖縄マスコミが便宜上つけただけで、アメリカ世の時代は「コザシンカ」などの~シンカ(グループ)でお互い呼んでいた。当時のケンカは素手が基本。

昭和36年(1961年)に那覇派の首領と目されていた又吉世喜が、ヒットマンに狙撃される事件が発生。これが沖縄ヤクザ史上初の狙撃事件となり、時の米国民政府を激怒させる。この事件のあと米国民政府から琉球警察に “キツいお達し” があったせいか、一時期沖縄のアンダーグラウンド勢力は壊滅寸前にまで追い込まれる。

※又吉が狙撃されたのは昭和37(1962)年11月13日。

・なおこの又吉狙撃事件以降、(沖縄ヤクザ)業界において銃撃が頻繁に行われるようになる。

※ちなみに、昭和42(1967)年の第三次沖縄抗争の際に、初めて銃殺者が出てしまう。

・ちなみに暴力団のアジト(と思わしき)事務所を警察が捜索すると、米軍用短銃だけではなくカービン銃までもが押収されたことがある。

・昭和49(1974)年10月26日付琉球新報において「米軍からの未届け分も合わせると、いま民間地域にでまわっている米軍用短銃は約800丁前後」という内容の社説が掲載された。ちなみに同年における旭琉会の構成員は推定で800人前後。

・復帰後にまことしやかに言われていたことの一つに、「沖縄では警官より暴力団が銃を所持している」がある。

※「タクシーに乗車したらヤクザの話はするな」も付け加えておきます。

・昭和51(1976)年に沖縄県警が暴力団アジトから押収した武器は、手榴弾22個、短銃18丁、300連発の軽機関銃やマシンガン7丁で、驚くなかれ弾丸は7783発を数えた。

・昭和51年4月に宜野湾市普天間署に留置されていた旭琉会組員が、仲間が外部からこっそり銃を差し入れて、その銃で警官を脅し脱走する事件が発生。

・昭和52年1月には自衛隊員の手引きによって航空自衛隊知念分屯地から、MIカービン銃8丁が盗まれる事件が発生。この事件に関連して旭琉会中堅幹部ら6名と自衛隊員1名が逮捕された。

・暴力団抗争による銃撃・射殺事件は昭和52(1977)年がピーク。極めつけは同年8月10日、旭琉会組員が抗争中の琉真会のアジトを襲撃した際には警備中の機動隊員を狙撃して、その後事務所に手榴弾を投げ込んだ。

・その際の旭琉会組員(東大浜某)の言葉「イッターカラ・サチニ・クルサイヤー(お前らから先に殺してやる)」のセリフと、同年翌日の沖縄県警の斉藤隆本部長の「(中略)しかし、今後は暴力団が発砲したら射殺しても構わない」との発言は全国のヤクザ業界を震撼させた。

・ちなみに、この機動隊員狙撃案件に関して、当時抗争相手だった上原組の秀吉組長は「わしら、警官をまともに撃つなんて旭琉会のようなバカな真似は絶対にしない」とコメント。

※なお、当の上原組は、偽装解散書を提出した後、新城喜史を射殺した&又吉世喜の自宅に手りゅう弾を投げつけたとして、旭琉会以上に警察を怒らせていた模様。

・昭和53年刊行『沖縄ヤクザ戦争』の著者が首里桃原にある旭琉会と抗争中の上原組に取材に赴くと、アジト内には11発の銃弾跡があったという。

・昭和52(1977)年当時の旭琉会会長は多和田真山(たわた・しんざん)。相次ぐ銃撃事件にたいし「県民の皆様や警察に迷惑をかけて申し訳ない」とのコメントを発表。さすがに昭和53年以降からは抗争が沈静化する。(つづく)