沖縄ヤクザ関連の蒐集したエピソードを適当にならべてみた – その5

今回はこれまで蒐集した沖縄ヤクザ関連の史料(大部分が琉球新報の記事)から、ちょっとしたエピソードを紹介します。

当ブログでは原則として公開情報だけを扱っていますが、そのなかから昭和36~41年にかけてのじわじわくる話を厳選?しました。ほかにも面白い話はありますが、今回は紙面の都合上3つに絞りました。読者のみなさん是非ご参照ください。

その時歴史は動かなかった

昭和37(1962)年12月6日付琉球新報に興味深い記事が掲載されていました。

暴力団、普天間で対立 – 猟銃をあわや発砲 白昼、警察のおひざ元で

【普天間】暴力団の反目が激しい五日白昼、普天間署と目と鼻の普天間繁華街でコザ派と那覇派が対立獵銃をつきつけ発砲寸前に通報でかけつけた警官隊でことなきを得たが、一味は獵銃を持って自動車で遁走するという事件が起きた。

五日午後四時過ぎ宜野湾市字普天間一六三、セントラル遊戯場前通路上でコザ嘉間良五七田場盛孝(三五)喜名某の那覇派幹部と新城義史(喜史)、仲間義正のコザ派幹部の暴力団四人が対立した。

普天間署の調べによるとコザ派の二人は那覇へ行く途中普天間で田場に出合い、田場が経営するセントラル遊戯場で車を下り最近の両派の対立について話していた。するとコザ派の二人が自分を襲いになぐり込みをかけたと勘違いした田場はいきなり家の中から獵銃を持ち出して新城義史に向けて発砲しようとした。それをみた付近の人が普天間署に急報。かけつけた警官の姿をみた田場と喜名は獵銃を持ったまま車で那覇方面に逃げた。新城義史は任意出頭をもとめられ、普天間署で取り調べを受けたが、仲間は現場から逃走した。

対立現場は宜野湾市普天間の”すずらん通り”で普天間署から百㍍と離れていない目と鼻の繁華街、付近の人の急報で流血をまねく大事にはいたらなかったが、警察の前でしかも白昼暴力団の不穏な対立があったのに対して付近の住民はおびえている(中略)。

参考までに田場盛孝(当時那覇派)は顧問弁護士さん曰く「(田場は)人間的には申し分ないだろう」ですが、当時の”人間的”や”善良な市民”の基準が現在と大きく異なることだけは確かです。

もしもこのときに普天間署への通報がなく、新城喜史さんが猟銃で射殺されていたら沖縄ヤクザの歴史は大きく変わっていたでしょうが、事実は逆でこの事件から5年後の昭和42年(昭和42)年10月19日に彼は山原派のチンピラたちに自宅を襲撃されて射殺されてしまいます。

ちなみに田場さん、月間沖縄(昭和38年3月号)にもインタビュー記事があって、

世間では私のことをいろいろいっているようだが、現在の私としては、これもやむをえないと思っています。過去にはたしかに乱暴なことばかりしてきました。世間の噂さには誤解も多いようだが、然し、罪のつぐないはしなければならないし、弁解する気はありません。ただ今後は新しい人生の建て直しをするために努力しようという気持ちでいっぱいです。そのためにジュークボックスの販売もやめました

と殊勝なコメントを残していますが、残念なことに努力しようという気持ちだけではどうにもならなかったのかもしれません。

差し入れ

昭和37年12月27日付沖縄タイムス夕刊3面にこんな記事が掲載されていました。

暴力団に差し入れ防犯協会会長が糸満町で問題化

全国各地で暴力追放運動が展開されているおり、糸満地区防犯協会長が、留置中の暴力団に食事を差し入れたということで、防犯協会員や町長がふんがい、町当局では、ばあいによっては補助金の停止も考えているという。

これは、さる十六日、糸満町糸満一四一四上原重蔵(四九)= 糸満地区防犯協会長、立法院議員 = が、糸満署に留置中の那覇派の又吉世喜(二九)ほか十二人に、肉ドンを差し入れしたというもの。又吉らは、さる十五日、町内の元料亭「菊水」で”銃器、爆発物不当所持”の布令違反現行犯でつかまった。

うかつだった“ これについて上原氏はつぎのようにのべている。

十六日に勤め先の銀行で、事務員たちと話しているとき、たまたま留置されている人たちの話がでて、女事務員などが「こんなときに何かしてあげなければ…」というものだから、それなら適当にやってくれ、といっておいた。私としては、この人たちが選挙のとき、いろいろ活動してくれたし、隣家のよしみもあって、ただ何気なくそういうことをいったわけです。その翌日私は砂糖問題の折衝で上京し、そのまま忘れていた。二十六日にかえって、これが問題化していることを知り驚いている。女事務員たちが、私の名で食堂に肉ドンをたのみ、差し入れたことも帰ってきてからわかった。防犯協会長としては確かにうかつだったと思っている。もちろん私も暴力追放には、日ごろから関心を持っている。まえにも那覇署に新垣署長を二度ほど訪ね、しっかりやってくれと激励した。上原糸満町長などは、私が留置場まで行って暴力団を激励したなどといっているようだが、そういうことは絶対にない。

大村糸満署長の話 上原氏が本土に出発する前日、留置されている具志向盛を知っているので、なにか差し入れしたいといっていた。タバコを差し入れしたのは知っているが、ほかのことは知らない。警察としては取り調べに支障のない限り、ことわるわけにはいかない。町長から電話があったので、さっそく係りの署員に、差し入れした人たちの一覧表をつくるよう言いつけた(中略)。

まぁ、どこから突っ込んでいいかわからない記事ですが、この記事に登場する具志向盛は糸満を拠点とする那覇派の幹部で、又吉世喜のお悔やみ広告にも友人代表として掲載されていた人物です。つまりこの立法議員さんは 具志向盛 – 又吉世喜との人脈があったわけで、この人たちが選挙のときいろいろ活動したおかげで議員さんが勤まってますよと告白しているようなものです。

ちなみにこの話は時の糸満町長を激怒させ、糸満町防犯協会に補助金を出さないあるいは返還しろの騒ぎに発展します。最終的には町の予算から従来どおり防犯協会へ補助金が交付されたのですが、こういうエピソードからも当時の社会状況の一端をうかがうことができます。

バイキン

昭和39(1964)年7月あたりから、コザ派の内紛が勃発し、泡瀬派(喜屋武盛一)と山原派(あるいは本部派、糸数直亀)が対立します。翌年9月の琉球新報において15回にわたる特集記事『組織暴力』が掲載されますが、そのなかにこんな一節がありました。

コザ派が二分して、泡瀬派はコザ市胡屋に、また山原派は美里村吉原にそれぞれアジトをかまえた。暴力団の世界で「シマ」(島)と呼ばれるナワ張りも決まった。

山原派は美里村吉原を中心に嘉手納、コザ市照屋、普天間の一部を占め、泡瀬派はコザ市胡屋一帯を中心に具志川村安慶名、与勝一帯をその勢力下におさめたのだ。山原、泡瀬両派の下部組織の間では相互に

「バイキン」

とののしり合うようになり、両派の感情的対立は急激に高まり、もはや抜き差しならぬところまできた(中略)。

引用:昭和40(1965)年9月7日付琉球新報7面『組織暴力(4)』より抜粋。

ちなみに第二次沖縄抗争と呼ばれる旧コザ派の内紛は2年ちかく続きますが、当時のアシバーたちが相手を「バイキン」と罵る様を想像すると、小中学生のケンカの延長にしか思えません。当時のおバカのレベルを知る上ですごく参考になる一節ですが、こんな連中が刃物や銃火器をもって暴れ回ったら一般住民は迷惑の極みだったこと間違いありません。”善良な市民”こと喜舎場朝信さんがいち早くアシバーたちの世界から”引退”した理由も何となくわかるなと思ったブログ主であります(終わり)。