今回は、昭和36年(1961年)9月9日に起った「西原飛行場事件」について言及します。この事件は同年11月号の『月間沖縄』で公にされ、その中で始めて又吉世喜の存在がマスコミに登場しました。そして昭和38年(1963年)3月号の『月間沖縄』と昭和40年(1965年)9月9日付琉球新報特集記事『組織暴力(6)』のなかで同事件の詳細が掲載されていますが、一部記述に食い違いがあります。
たとえば『月間沖縄』では又吉を誘った人数が3人であることに対し、『組織暴力』では「新城義史、喜屋武盛晃、喜屋武盛一、岸本兼和、糸村直亀ら」と最低でも5人以上が関わっています。ただし両記事とも、那覇派主催の親睦会で又吉が無礼を働いた→コザ派幹部激怒→又吉を呼び出して西原飛行場でリンチの流れになります。どちらの記述が真実に近いかは不明ですが、「一書に曰く」として両記事の該当部分を抜粋しました。アングラネタ好きの読者の皆さん是非ご参照ください。
・まずは1963年3月号『月間沖縄』から西原飛行場事件に関する記述を書き写しました。琉球新報特集記事との違いは、この事件の原因は又吉と新城(喜史)との個人的な感情対立であると明記していることと、又吉をつれ出した人数および西原飛行場へのドライブルートです。
ところで、那覇、コザの両派の対立が表面化したのはいつ頃からだろうか。
これは一昨年九月に起きた西原飛行場跡での傷害事件が発端になっている。那覇派の親分格だと見られている又吉世喜(30)がコザ派の暴徒三人に西原飛行場跡の広場の真中につれて行かれ、なぐられて重傷を負ったという事件だ。同事件は本誌がスクープして、当時、世間の話題を賑わしたものであるが、ここにも簡単にあらましを書いておこう。関係者からきいた話をまとめたものだが、この事件は又吉とコザ派の新城某という男との個人的な感情対立が原因になっている。
事件前の両派は表面的にはそう悪い仲ではなかったようだ。然し、コザ派の縄張りが次第に那覇に進出してきているということで、那覇派の間には敵対感情がひそかに広まりつつあったと見られている。それでいながら、これまでと変わりなく、両派は親睦会を持ったり、他派の親分格の家にも気やすく出入りしていた。九月のある晩も那覇派の主催で両派幹部の親睦会があった。場所は那覇市内の某料亭。招待されたコザ派の幹部たちは車を連ねて会場に乗りこんだ。
然し、どういうわけかその日の主催者側の招待客に対する態度はいつもと変わっていた。コザ派に対する歓待の色が見えず、部屋も別個にとるという、つめたい態度である。そこでコザ派は皆気分をこわし、帰ってからも不満は尾をひいた。なかでも新城は短気に走って、又吉をこきおろした。ところが、この新城の言が又吉の耳に入り、又吉も”眼には眼を”で新城に対する暴言を吐き、これがまた新城の耳に伝わった。そしてこのときから、二人の間には一触即発の敵対感情がうずまきはじめたのである。
新城は伝えきいた又吉の暴言を、又吉に直接会って確かめようと思った。彼はさっそくこれを実行にうつし、コザから車を那覇に向けてとばした。その途中、彼は二人の同派の青年が道を歩いているのを見つけ、車を寄せた。二人に事のいきさつを話、又吉に会いに行くところだ、といった。すると、二人は”俺たちも一しょに行く”ということで、結局、新城には二人の仲間ができた。
三人は車を又吉の家の近くに停め、又吉を同乗させることに成功した。新城から”ききたいことがある”といわれて、又吉は何の気なくいわれるままに車に乗った。コザに行くものとばかり思っていた。然し、車は首里を通り、又吉が下車させられたのは夜目に砂漠のように広がる西原飛行場跡の真ン中だった。
新城が又吉に詰問したのはいうまでもない。又吉はこの時はじめて三人の目的を知った。彼は新城に対する暴言を詫びたようだ。然し、三人はただでは許さなかった。又吉はこん棒をふるわれて重傷を負い、彼らの車で自家に送られた。
細部に事実を合わない点があるかもしれないが、とにかく、両派の表面的対立のきっかけはこの事件だといわれている(下略)。
引用:月刊沖縄1963年3月号 – 殺し屋に殺された暴力団14~15㌻
・次は昭和40年(1965年)9月9日付琉球新報特集記事『組織暴力(6)』に掲載された西原飛行場事件についての記述です。『月間沖縄』との大きな違いは又吉拉致は組織的に行われたことが明記されている点です。
さる61年9月9日の深夜那覇派の親分・又吉世喜は那覇市壷屋町の自宅でくつろいでいた。そこへコザ派の幹部新城義史、喜屋武盛晃、喜屋武盛一、岸本兼和、糸村直亀らが訪れ、又吉に『飲みに行こう』と誘った。那覇派の又吉とコザ派とは親しい間柄だった。
新城らの誘いに、又吉は軽い気持ちで応じた。又吉は新城らと一台の車に同乗し、普天間に向かった。車は普天間から方向を西原飛行場跡に向けた。そのとき、又吉は二、三台の車があとに続いていることに気づいた。西原飛行場跡で車をおりると、又吉はコザ派のもの数人にツルハシの柄や石でめった打ちにされた。
新城らは、意識を失った又吉を再び車に乗せ、壷屋町のかれの自宅までつれ戻して、姿を消した。病院に運ばれた又吉は全治二カ月の重傷だった。4,5年前、世間を騒がせた那覇派とコザ派との対立の発端となった『西原飛行場事件』である。又吉世喜は、なぜかこの事件を警察に告訴しなかった。
(中略)61年初旬、那覇市内の某所でコザ派幹部の親睦会があった。新城義史、喜屋武盛晃らコザ派幹部にまじって、又吉世喜も出席した。酔うほどに、又吉はじょうたんを飛ばした。「那覇ッ子」気質の又吉はほがらかである。コザ派幹部に同格のつもりで話かけたり、プーサー(ジャンケン)をやろうとシャレをいった。この又吉の態度に、コザ派幹部は『又吉はオレたちをばかにしている。生意気だ』と怒った。又吉にすれば何とも思わずにやったことだが、これがわざわいのタネを残した。
又吉のふるまいに、コザ派幹部の間には『いまに又吉がコザ派のシマ(縄張り)をとるかも知れない』との不安が芽ばえはじめた。又吉には、もうそのころには、那覇市内に一応の組織をかため、資金もたまりだした。そこでコザ派幹部は『又吉をいたい目にあわせよう』ということになった。又吉のスキをうかがっていたコザ派は61年9月9日、ついにこれを実行した。又吉を西原飛行場跡に誘い出し、いためつけた(下略)
引用:1965年9月9日付琉球新報特集記事『組織暴力(6)』より抜粋
・参考までに比嘉清哲著『沖縄警察五〇年の流れ』から同事件に関する記述を抜粋します。警察ではこの事件が”組織的に行われた”と認識していたことが分ります。
これまで両派(那覇派・コザ派)は懇親会を開くなど親密な関係にあったが、又吉が那覇市内の料亭で開いた懇親会で、接待を受けたコザ派の新城喜史らは又吉から相手にされなかった。
又吉は接待するどころか、料亭の調理場で花札をしていたのである。
”メンツ”をつぶされた新城らは又吉の横暴を極めた態度に不満をいだき、又吉を襲う計画を立てた。
一九六一年(昭和三十六年)九月九日午前十時頃、又吉(二十九)は、コザ派幹部・新城善史(三十三)ら六人から「ちょっと話がある」と自宅から呼び出された。
新城らは又吉を車に乗せ、西原飛行場跡に連れて行き、又吉の横暴な態度をたしなめるため、六人で暴行を加え、二ヶ月の重傷を負わせた。
しかし、表向きを”メンツ”にした傷害事件は、実は又吉の縄張りである十貫瀬を奪い取ることにあった。
又吉ら那覇派は、三十軒ちかくある十貫瀬の飲み屋から夜警料を名目に、一軒から月百ドルを徴収していた。
更に八十人ちかくいる飲み屋の従業員からも一人当たり月一ドルを徴収していた。
この財源に目をつけたのがコザ派首領・喜舎場朝信(三十九)等であった。
引用:比嘉清哲著『沖縄警察五〇年の流れ』195~196㌻