今回はひさびさに沖縄ヤクザに関する記事です。昭和40年(1965年)9月4日付「琉球新報7面」に『組織暴力』とのタイトルで計15回の連載企画記事が掲載されていました。警察の”G”資料を元に当時の記者たちが総力をあげて取材した特集記事で、これらの特集を組まざるを得ないほど当時の沖縄社会はアシバーたちが幅を利かせていたことが分ります。これら特集記事の中でブログ主が気になった点をいくつか抜粋しますので、アングラネタ好きの読者の皆さん是非ご参照ください。
組織暴力(1)の序文
沖縄の暴力団は組織化した。ばく大な資金源をもとにナワ張りを作りあげ、分別を失った若者がのし歩く。ナワ張りの奪い合いから、流血の殺傷事件まで引き起こす。大親分は組織の奥でゆうゆうとして、表面にはでないといわれる。なぜ暴力組織ができたのか。善良な住民が安心して町を歩けないのはなぜか。沖縄の組織暴力団をえぐりながら、みんなで考えてみよう。
引用:1965年9月4日付琉球新報(7)より
上記の序文が当時の物騒な社会状況を雄弁に物語っています。この特集記事が掲載された昭和40年には2月に泡瀬派の親分格である喜屋武盛一が山原派の上原秀吉にドスで刺された事件が発生し、同年8月には普天間で山原派組員による泡瀬派組員殺害事件が起こり世間を騒然とさせます。大日本帝国時代の沖縄県と戦後のアメリカ世との大きな違いはアシバー(不良)たちが組織化して暴力行為に及ぶようになったことで、琉球新報の特集記事もこの点を強調しています。
極南会、一か月で解散
Google 検索してもなかなかヒットしない”極南会”ですが、昭和37年(1962年)10月、単なるアシバーの集合体だったコザ派が那覇派に対抗するために結成した団体のことで、その詳細は下記引用を参照ください。
暴力団コザ派の組織「極南会」は、62年10月に結成されたが、わずかひと月たらずで事実上の解散のうき目をみた。「極南会」会長に喜屋武盛晃をまつり上げたものの、組織の実験は新城義史(善史) = 服役中 = がガッチリにぎっていた。そのうえ「極南会」には、組織内部での組織間の”私争”にたいする罰則などのオキテがなかった。組織の動きは、新城義史が左右し、新城の発言が一挙一投足が、いわば極南会のオキテになっていた。
新城義史は本土のヤクザ世界でも顏が売れているうえに、沖縄の暴力団ではナンバーワンの実力、腕力が強いうえに、統率力があった。これが新城を極南会のかしらにしたのだった。極南会結成の時、会長のイスをあてがわれた喜屋武盛晃とその一派が、新城のこのようなふるまいを快く思わなかったのは、自然の成り行きといえるだろう(下略)。
引用:1965年9月6日付琉球新報(7)『組織暴力(3)』より
さらに、コザ派から那覇派に鞍替えした仲里昌和氏の証言も追記します
(中略)「極南会は、那覇派をつぶすために結成されたようなものだ。発会式は喜屋武盛晃の自宅の二階で開かれた。私も含め新城義史、喜屋武盛晃ら幹部のほとんどが出席した。喜舎場朝信は出席しなかった。幹部の話し合いで極南会のメンバーをまとめ、血判状をつくり、血判をおして行動をともにすることを誓った。那覇派を消そうということに話がまとまり、本土からきた殺し屋をまじえ、泡瀬ビーチや昆布ビーチで「殺し」の謀議をした。極南会の命令は新城義史が出していた。(63年米民政府裁判での仲里の証言)
この証言がキッカケとなってその後、仲里昌和はコザ派から「裏切り者」のラク印を押されて、ねらわれる身になったが、仲里は、きのうの敵であった那覇派にわたりをつけ、那覇派の幹部におさまった。
引用:1965年9月6日付琉球新報(7)『組織暴力(3)』より
補足すると、那覇派とコザ派の対立は昭和36年(1961年)9月の又吉世喜リンチ事件に端を発し、翌年11月のコザ派による又吉狙撃事件でピークに達します。本土からきた殺し屋は本土系暴力団石井組の山中一男のことで、以前当ブログで掲載した「短銃で射たれ重傷 – 壷屋、暴力団のヤミ打ちか」の記事と内容が一致します。又吉狙撃事件は、結果として米民政府を激怒させ、極南会の事実上のトップである新城は刑務所に送られ、組織も自然消滅するという最悪の結果をまねきます。そして後のコザ派分裂騒動を引き起こす伏線となったのです。
山原派、泡瀬派、那覇派の組織図
ブログ主にてまとめた組織図を掲載します(昭和40年当時)
第一次、第二次沖縄抗争も元凶は新城善史
第一次沖縄抗争(那覇派vsコザ派)においても、第二次沖縄抗争(泡瀬派vs山原派)にしても、新城善史(しんじょう・よしふみ)の言動が発端になっています。彼の言動が騒動の引き金になっていて、しかも全く反省しなかったのです。泡瀬派と山原派の抗争も元はと言えば極南会結成時に会長である喜屋武盛晃を差し置いて組織を動かしていた新城の存在が伏線になっています。
『組織暴力』によると、かつてのコザ派の大親分、”善良な市民”こと喜舎場朝信さんは昭和37年(1962年)の警察による一斉手入れで「完全に暴力団から足を洗った」らしく、事実上解散においこまれたコザ派の残った幹部たち(喜屋武盛一、糸村直亀ら)が組織を立て直す過程でいざこざを起こし、そして分裂騒ぎにまで発展してしまいます。その経緯は下記参照ください。
(中略)喜舎場が、暴力団から足を洗ったことと、コザ派の実力者、新城義史、喜屋武盛晃らおもだった幹部が逮捕されたことで、コザ派は事実上解散寸前に追い込まれた。コザ派に残ったのは、喜屋武盛一 = 現泡瀬派親分と、糸村直亀 = 現山原派親分 = ら中堅幹部だけとなった。
そのうちに、喜屋武盛一は幹部の抜けたコザ派の組織の立て直しをはかるため、かつて本土のヤクザと關係し、当時北部にいた大城善秀 = 現泡瀬派 = に助力をもとめた。大城は”実力”がある。喜屋武と大城は幹部がやり残した未完成の仕事、つまり資金源の開拓と組織拡張に乗り出した。そこへ糸村の子分だった仲間吉正が喜屋武と大城に「オレたちにも仕事を分け与えろ」とせがんだ。喜屋武と糸村は前から反目している。事情を知らない大城が「仕事がほしければ実力でとれ」といった。この一言で、コザ派内部における相互の反目が頂点に達した。喜屋武らは泡瀬派として、糸村は山原派としてタモトをわかち組織はかわった。
引用:1965年9月6日付琉球新報(7)『組織暴力(3)』より
上記引用から、ちょっとした人間関係のもつれから、世間をお騒がせする大騒動に発展していることが分ります。沖縄の暴力団抗争はすべてこの様式があてはまり(特に第一次、第二次、第四次)、しかも新城善史が絡んでいるのがポイントです。彼がもう少し大人しければ沖縄ヤクザの歴史も違うものになったのではと思わざるを得ないブログ主であります(続く)。