年末年始の休みを利用して、ブログ主はこれまで蒐集した史料を整理していますが、その際に沖縄ヤクザに関する貴重な記事を再発見することができました。後に “旭琉会” のビッグネームをして知られる人物たちのチンピラ時代など、きわめて興味深い内容となっています。
昭和37(1962)年前後は那覇派やコザ派といった “アシバー” たちにとって分岐点になった年でもあります。すなわち当時の琉球社会が彼らを明白に “反社会的勢力” と看做すキッカケになった事件が多数発生しているのです。その一つが前年9月に発生したコザ派による又吉世喜リンチ事件で、どうやら警察は10月にはその事実を把握していた可能性があります。ためしに昭和36(1961)年10月11日付琉球新報の記事をご参照ください。
暴力団取り締まりへ
全琉捜査課長会議 / 明三ちゃん事件など捜査
▷暴力団の実態をにぎるため組織や動行についてくわしく調べることになった。これは最近都市地区で縄張り争いにからんで組織的な対立があるとの情報で、警察としても最悪事態を防ぐため、先決問題として各地の暴力団の動行をつかむことになったもの。団の組織系統、その沿革、目的、人員、収入源、その使途、活動範囲などをくわしく調べ、暴力犯検挙のたんしょにする。さらに関係人が暴力団のお礼参りなどの後難をおそれ泣きね入りすることがないよう警察として住民の指導につとめることになった。(昭和36年10月11日付琉球新報7面)
参考までに那覇派の又吉がコザ派によって西原飛行場で暴行を受けたのが昭和36(1961)年9月9日深夜なので、その前後の新聞(新報、タイムス)も調べてみましたが、事件を匂わす内容は上記引用の記事が最初です。琉球警察はこの時点から那覇やコザのアシバーたちの実態把握に全力を尽くしていたことが伺えます。
翌年の昭和37(1962)年1月24日付琉球新報には、初めて西原飛行場の事件が掲載されます。
暴力団きょう送検 / 余罪も出る / さらに1人に逮捕状
那覇とコザの暴力団を追及中の那覇、コザ両署は、24日午後からこれまで逮捕した20人を送検する。両署は中、南部各署に分散留置して調べをすすめているが、23日でほとんど調べを終わった。那覇署の話では2~3の余罪が判明しており、同署は新たにコザ派の1人に逮捕状を請求した。余罪追及に重点をおいて調べているので、いま那覇、コザの繁華街にいる両派の子分たちにも逮捕の手はのびるもよう。
那覇署での未逮捕はこの縄張り争いの首謀格である新城喜夫(33)1人。同署で必死に足取りを追っている。
これまでの調べによると、新城喜夫(33)喜屋武盛晃(30)喜屋武盛一(30)岸本憲和(31)糸村直亀(34)糸数宝仁(32)の6人は、昨年9月9日午前零時すぎ普天間で遊んでいた那覇派の親分・又吉世喜(29)を誘い出して西原飛行場につれ込み、ツルハシの柄や石で意識不明になるまでめった打ち、全治二か月の重傷を負わせたもの。これはコザ派が那覇への縄張り拡張のためとった不意打ち手段だった。(下略)(昭和37年1月24日付琉球新報7面)
この記事の注目点は、事件に関与した人物が実名掲載されていることです。たとえば後に2代目旭琉会の “ビッグ3” と言われた糸数宝昌さんが初めて登場しているのも興味深いです。ただし一部誤記があるため訂正すると、新城喜夫→新城喜史、糸数宝仁→糸数宝昌、岸本憲和→岸本建和(ほか堅和、兼和、など記述を確認)になります。
ちなみに一番誤記が多い新城善史ですが、同年25日付琉球新報夕刊で顔写真が掲載されています。
新城を全琉に手配
那覇署は24日、逃げ回っているコザ派の暴徒・新城喜史(35) = 大宜見村字塩屋765 = を全琉に指名手配した。手配書によると新城は仲間6人と共謀、那覇派の親分・又吉世喜(29) = 那覇市壺屋町 = を西原飛行場に誘い出して棒や石で意識不明になるまでめった打ち、西原飛行場事件の主謀者と見られているもの。(昭和37年1月25日付琉球新報夕刊3面)
タクシー強盗事件の記事横に無理やり配置した感がありますが、新城の顔写真は(確認できる限り)この時初めてマスコミによって全琉に晒されます。この記事のもう一つ注目すべきは “住所” が掲載されていることで、彼が北部地区出身であることが再確認できます。
次回は那覇派関連の記事と、多和田真山(2代目旭琉会々長)が初めて全琉デビューした史料を紹介します。(続く)