前日(15日)にツイッター上で(偶然にも)石井孝明さんと沖縄2紙について少しだけやりとりをしましたが、それにヒントを得て、今回はブログ主なりに沖縄タイムスの “本質” について言及します。
本質なんて大それたワードを使いますが、巷で流布されている “中国の手先” など荒唐無稽の話ではなく、歴史的経緯をたどって、なぜ沖縄タイムスが現在のような論説を掲載するようになったかを出来る限りわかりやすく説明します。
沖縄タイムスの創刊は、以前当ブログでも取り上げましたが昭和23年(1948)7月1日です(沖縄タイムス “創刊号”)。うるま新報が昭和20(1945)年7月に創刊された件と比較して、3年ほどの遅れがありますが、その理由の1つに初代社長の高嶺朝光さんが戦争協力者として米国軍政府から睨まれた経緯があります。
高嶺さんは昭和16年(1941)12月の沖縄新報(沖縄日報、沖縄朝日新聞、琉球新報の3社統合でできた新聞社)の中心人物なので、戦後しばらく新聞事業に携わることができなかったのです。ではなぜ米国軍政府が高嶺さんたちに新聞の発刊を許可したかというと、うるま新報(瀬長亀次郎社長)が “人民党の機関紙的な存在” になったことを危惧したからです。そして誕生したのが沖縄タイムスです。
それ故に創刊当初の沖縄タイムスの論調はひたすら “米軍マンセー” で、それが功を奏して米国軍政府から新聞発刊に必要は機材などを安定的に供給できるようになります。大雑把に言うとかつての沖縄新報時代のノリで新聞を発行していたのですが、ここで大きな問題が起こります。
沖縄新報時代(昭和16年12月から昭和20年5月まで)は県内に新聞社は1社だけなので、経営が極めて安定し結構儲かったのですが、戦後はライバル会社が複数誕生し、販売競争に勝ち抜かなければなりません。もちろん米軍マンセーの論調だけでは経営が行き詰まること確実な状況でした。
しかも当時は昭和26年(1951)9月10日に復元改題して再スタートした琉球新報のほうが記者および執筆陣のレベルが上だったのです。この点はアメリカ世時代の両紙を比較すると一目瞭然です。
そのような状況で沖縄タイムスは生き残るために、いい記事だから購読者に支持されるのではなく、
購読者受けする記事がいい記事だ
の路線で新聞を発行します。これが現在まで続く沖縄タイムスの “本質” なのです。
ちなみに今のタイムスの論調は昭和43年(1968)の主席公選で革新共闘会議の推す屋良朝苗氏が当選したあたりから続いています。正確には昭和37年あたりから一貫して “主席公選” を主張する野党(社会大衆党、社会党、人民党)よりの記事を提供するようになりますが、屋良氏の当選が現在のタイムスの編集方針を決定づけたといっても過言ではありません。
そしてそれが50年以上続いているのです。そうなるとアメリカ世を知らない県外の人たちや、平成生まれの沖縄県民には沖縄タイムスが提供する記事に違和感を抱くのは当然なのです。
現在の沖縄タイムスの購読層はアメリカ世を体験した60代以上が中心です。そのせいか近年の紙面編成は露骨なまでに “高齢者寄り” になっていますが、誤解を恐れずにハッキリ言うと、沖縄タイムスは非購読者の存在をガン無視して購読者が受ける記事のみを提供する “郷愁メディア” に成り下がってしまったのです。しかも琉球新報もタイムスに追随してる有様です。
だからブログ主は
沖縄2紙は実は “2死” であり、現在の購読層が激減するであろう20年後にはスリーアウトになる
と断言して今回の記事を終えます。(おわり)