今回は季節柄の話題として、昭和の沖縄における成人式の”風物詩”について言及します。平成以降は”沖縄の成人式”と題したウィキペディアが編集されるなど、そのあり方が物議を醸していますが、復帰後の成人式は労組や民主団体などにおける”反自衛隊闘争”の活動現場として地元メディアによって大々的に報道されてきました。
平成生まれの沖縄県民および当ブログの読者はおそらくご存知ないかもしれませんが、復帰後の沖縄県においては一部市町村が県内在住の自衛隊員に対して成人式に招待しない慣行がありました。有名なのが那覇市で、その案件に関しては一度当ブログにて配信しています(上級県民の一例)。
ただし那覇市においても昭和54(1979)年から成人式の開催方法を変更して、その過程で「平服(背広など)着用なら成人式への参加はさしつかえない」との方針に展開し、実際に各地区の成人式実行委員会が自衛隊員を正式に招待するようになります。だがしかし、皮肉にもこの処置がきっかけで”自衛隊員の成人式参加阻止行動”としての反自衛隊闘争が行われるようになったのです。
その舞台は那覇市小禄の成人式で、ブログ主は昭和54年から昭和63年までの関連記事をチェックしてきました。今回はその中から初期の三年間(昭和54年から56年)にかけての小禄の成人式実行委員会と反自衛隊闘争の熱きバトルをブログ主なりに整理してみました。読者のみなさん是非ご参照ください。
その前に”自衛官成人式阻止闘争”に関して『沖縄大百科事典』の記述をご参照ください。
自衛官成人式阻止闘争 じえいかんせいじんしきそしとうそう 那覇市小禄地区での成人式に参加する自衛隊員を対象に、1979年(昭和54)から護憲反安保県民会議が毎年取り組んでいる反自衛隊闘争の一つ。78年までの那覇市の成人式は市教育委員会の主催でおこなわれていたが、自衛隊員には招待状を出さず記念品だけ贈っていた。79年から那覇市が主催を地区実行委員会に変更、那覇基地内の自衛隊員が招待参加するようになったため、毎年阻止行動がとられている。→反自衛隊感情〈銘苅全郎〉
補足として護憲反安保県民会議は現在では沖縄平和運動センターとして名称を変えて活動していますが、この団体と労組が中心となって昭和54年以降の自衛官成人式阻止闘争が繰り広げられてきました。なぜ彼らが自衛隊員を目の敵にしてきたのか、具体的には「憲法を守れ」と主張している連中が自衛官に限って成人式への参加を阻止しようとしたのか。ブログ主の責任でその理屈をまとめてみると、
日本国民は憲法によって基本的人権が保障されている(例11、13および14条)。ただし自衛隊は明白に憲法違反の存在であり、しかも我が沖縄県民の合意無く一方的に県内に配置されたのは決して許されることではない。それゆえに憲法違反の存在である自衛隊に所属する隊員には(日本国憲法が定める)基本的人権は保障されない。
になります。現在の民主団体は決して公言しない、あるいは否定するでしょうが、当時の彼らの言動をチェックするとブログ主はそのようにしか理解できません。その傍証として彼らが昭和54年に行った阻止闘争に関する記事を紹介しますのでご参照ください。
にぎやかに20歳を祝う
小雨の中、各地で成人式 – 那覇 – 自衛隊員を門前払い
「大人の仲間入りおめでとう」”成人の日”の十五日、県内各地で成人式が行われた。ことし、成人を迎えた若者は県内で一万八千五百人。この日はあいにく朝から雨にたたられ、天気には恵まれなかったが、各地域の成人式に参加した若者たちの表情はさわやかだった。まちには振そで姿の女性たちが繰り出し、華やいだふん囲気に包まれた。半面、自衛隊員の成人式の参加問題が論議され話では成人式に来た自衛隊員が労組員に会場入り口で門前払いをくらい、しぶしぶ引き揚げるというトラブルがあった。
街にはふりそでの花咲く
那覇市で成人を迎えた若者は五千七百四十一人。同市ではこれまで市教育委員会が主催して該当者を一堂に集めて成人式が行われたが、ことしから旧行政区ごとに実行委員会を組織、城西小校、労働福祉会館、那覇市民会館、小禄中学校の市内四会場で催された。市内にすむ自衛隊員(約百人)にも「平服で参加するよう」にと招待状が出された。これに対して那覇市職労や護憲反安保県民会議は「反戦平和の理念に反する」として反対を表明。十五日は自衛隊員の新成人該当者が最も多い小禄地区の成人式会場である小禄中学校に阻止団を動員、実力闘争を行った。
市職労や県労協の組合員、学生ら約百五十人は雨の中、成人式に参加する若者たち一人ひとりにビラを配布、反自衛隊闘争をアピールした。成人式が始まろうとした午後二時ごろ、体育館入口で自衛隊員らしい若者を労組員らが取り囲み、詰問したところ「自衛隊員である」とあっさり認めた。市職労の与那嶺委員長らが「自衛隊員の参加は混乱を招くので帰ってもらいたい」と説得。これに対して新潟出身の同自衛隊員は「私は自衛隊員に誇りを持っている。みなさんが言うことが正しければ帰る。しかし、帰ると自衛隊として問題がある」「一生に一度のことだ。一人の人間として参加したい」と不満そうな表情。だが、労組員の説得でしぶしぶながら引き揚げた。労組員の門前払いに遭って、小禄地区の成人式への参加を断念した自衛隊員は数人いた。
ところで、小禄地区の成人式は労組員と自衛隊員とのトラブルの影響は全くなく、予定どおり午後二時から始まった。参加者は約五百人。まず、小禄中学校吹奏楽部の演奏で那覇市歌を斉唱。上原実実行委員長が「みなさんはこれから一人の大人として責任を負わされることになるが、各自の能力を十分に発揮して社会のために尽くしてもらいたい」とあいさつ。平良良松市長(代表)が「成人として意欲を燃やし”あけもどろの都市・なは”の都市づくりに立ち上がってほしい」と激励。このあと、参加者一人ひとりに記念品が贈られた。アトラクションは婦人会、青年会が琉舞やフォークソング、空手を披露、地域ぐるみの成人式となった。(昭和54年1月16日付琉球新報11面)
大雑把にまとめると、
1、護憲反安保県民会議らの活動家たちは成人式を主催する”実行委員会の許可を得ることなく”検問を行った。
2、そして実際に自衛官を詰問して追い返した。
3、そのことに対して当時のマスコミ(沖縄タイムス、琉球新報)は事実を掲載するのみに留まった。
になります。”実行委員会の許可を得ることなく”と記載しましたが、昭和54年当時の記事のどこにも民主団体たちが実行委員会の許可を得たとは言及していません。そこから察するに自分勝手に検問して正式に招待された自衛官を追い返したことになります。
これは小禄の実行委員会の面子をつぶす行為に外ならず、当然ながら翌年(昭和55)からそれ相当の対応策を施して成人式は開催されることになります。次回の記事でその様子について言及しますので今回はこれで終了します。(続く)