ここ数日、県内マスコミ等で “ヘイトスピーチ” に関する記事が散見されるようになりました。Wikipedia によるとヘイトスピーチ(憎悪表現)とは「人種、出身国、民族、宗教、性的指向、性別、容姿、健康(障害)といった、自分から主体的に変えることが困難な事柄に基づいて、属する個人または集団に対して攻撃、脅迫、侮辱する発言や言動のことである」と記述されていますが、一種の “差別言動” と看做して間違いありません。
ヘイトスピーチを法的に規制するかの主張には賛否両論ありますが、このテーマはいったん置いといて、今回は試しにブログ主が知る範囲で我が沖縄における差別言動の変遷について言及します。読者の皆さん是非ご参照ください。
ヘイトスピーチの根源には個人、あるいは社会における差別感情があり、さらに掘り下げると歴史的な経緯があると考えた方が自然です。ちなみに我が琉球・沖縄の歴史における差別言動の代表は、やはり首里や那覇人士における地域差別になりましょうか。この案件は琉球王国時代に淵源があり、特権的地位にあった首里・那覇・久米・泊出身は “上級琉球人” として振舞うよう運命付けられたことと無関係ではありません。
出自と出身によって社会的待遇が違う、いわゆる “身分制度” は琉球王国に限った話ではありませんが、我が沖縄の場合は地域間交流も絶無に近かった事情が加わって、都会人士の地方蔑視が甚だしく、この慣習は明治12(1879)年の廃藩置県後も続き、一連の近代化によっても容易に改善できなかったのです。
当ブログでも既に言及していますが、大正9(1920)年に島嶼町村制が改正され、翌10年に普通町村制に移行することで、我が沖縄では本島出身者と離島出身者の政治・社会的な権利義務が同一になります。ただし政治制度の改正と、沖縄県人の意識が変わることとは別問題です。都会人士の地方蔑視感情の一例として、戦前那覇署長を務めた仲村兼信さんの証言を紹介します。
今ではあまり見受けられなくなったが、戦前那覇では、国頭出身の人を差別する風潮が強く「ヤンバラー」といって軽べつして呼んでいた。国頭から那覇・首里に出てくる人たちは、悔しく肩身の狭い気持ちにさせられたものである。ところが戦争になって首里・那覇の多くの人がその “ヤンバル” の人たちの世話になるハメとなった。国頭の人たちの中には、那覇での差別をうらみ返すのもいて、各地で疎開者とトラブルが続出、戦時中の頭の痛い問題となった。
当時、安慶名徳潤さんが那覇市長をしていたので、私が那覇に出かけて安慶名市長とかけ合うことになった。「国頭の人たちと那覇の人たちの間でトラブルが起こって困っている。難を逃れてきた人たちが追い出されて路頭に迷うのも出る状態で、直接市長が地元との融和をはからんとおさまりそうにない」と訴え、市長の答えも「いいでしょう」ということで帰った。結局戦争激化の中で安慶名市長も本土に疎開せざるを得なくなり、この話も実現しなかったが、私としてはかなり手を焼いた問題だった。
引用元:『私の戦後史 / 第2集』沖縄タイムス編 326㌻より
ちなみに仲村兼信さんは嘉手納村出身(当時)で、大変な苦労をされて最終的に那覇署長に上り詰めた人物です。警察官僚として那覇以外にも各署を歴任されていますので、彼の証言には信ぴょう性があります。仲村さんの証言に限らず、小禄出身の長嶺秋夫さんも座談会で戦前の那覇人士の威張りくさった態度に苦言を呈しています。政治制度が変わっても、住民たちの意識が変わるのには時間がかかる典型例ですが、この首里・那覇人士の特権的感情は沖縄戦によって木っ端みじんに打ち砕かれてしまいます。(続く)