本日(12月21日)の沖縄タイムス一面に、次のような記事が掲載されていました。ブログ主は以前、屋良朝苗著 – 『屋良朝苗回顧録』を読んでいたため、この記事に対して奇異な感じを持ちました。全文を掲載しますのでご参照ください。
屋良主席の訴えを「泣き言」 – 71年毒ガス移送で日本大使 – 日米、新基地強行の姿と重なる
【東京】 米軍知花弾薬庫(現・嘉手納弾薬庫)にあった毒ガス兵器の第2次移送(1971年7~9月)を巡り住民の不安の高まりを受け、琉球政府の屋良朝苗主席が大体ルートを琉球政府では決められないと日米両政府に意見を求めたところ、「な(泣)き言」などと日本側から冷淡な態度を示された上に、日米から強硬的な対応も受けていたことが、20日に公開された外交文書で分かった。(東京報道部・大城大輔)
公開されたのは、沖縄の本土復帰に向けた日米両政府と琉球政府による復帰準備委員会の第7~9回(70年11月~72年5月)に関する資料。
71年1月に開かれた第8回会議の自由討論で、屋良氏は第一次移送ルートからの代替ルートについて意見を求めると、米国民政府のランパート高等弁務官は「そもそもりう(琉)政はいかなる代替ルートを選定したのか。前回のルートはいかなる追加的対策を講じても村民を納得せしめられないのかまずうかがいたい」と押し返した。
屋良氏は琉球政府が対代案を選定することで、「撤去の責任は元来米側にあるのもかかわらず、主席がなぜ責任をかぶるのか」と批判が出ることを懸念。「自分でイニシアチブをとることは難しい」と説明した。
移送コースは変更されたが当時、屋良氏の発言を日本政府の高瀬侍郎大使は「な(泣)き言」と表現し、ランパート氏は「そんなことでは事は進まない」と突き放している。
こういったやりとりは、民意を聞き入れず名護市辺野古の新基地建設を強行する日米両政府の姿にも重なる。我部政明琉球大教授(国際政治学)は「輸送方法で屋良主席の訴える地域住民の要望を取り入れるにしても、日米両政府が最終的に決めることだと露骨に表現している。広く言えば沖縄の主体性を認めようとしない姿勢といえよう」と指摘した。
70年11月の第7回会議では、自由討論の議題が事前に報じられたことについて屋良氏は発言を求められ、「自分の周辺からは絶対にリークしていない」と弁明。高瀬氏は「一層の努力を」と注意するなど、屋良氏への不信感もうかがえる。
ちなみに『屋良朝苗回顧録』からブログ主が抜粋した毒ガス移送の歴史も合わせてご参照ください。
〈毒ガス移送 142~151㌻より〉
・昭和44(1969)年7月19日 ワシントン発の外電で、沖縄中部の米軍基地・知花弾薬庫で作業中の米兵20数人が毒ガス漏れによって倒れ入院のニュースが報じられる。これが毒ガス移送問題の始まり。
・同年の米軍発表 〈貯蔵量〉 砲弾に装填されたものおよび容器入りで1万3千トン。種類はマスタード、GB、VXの三種。〈撤去作業〉 44年中に全量運び出す。海上輸送し、米国ワシントン州に陸揚げし、オレゴン州の弾薬庫に納める。
・同年オレゴン州議会が毒ガス移送に対して反対決議、ワシントン州も陸揚げに反対、毒ガス移送問題は暗礁に乗り上げる。
・昭和46年(1971)1月1日、ランパート高等弁務官が毒ガスをジョンストン島に移すことを通告。ただし全量を移送できないため、1月10日から12日の間、マスタードガス150トンを搬出する(レッド・ハット作戦)。移送のルートは知花弾薬庫→美里村→具志川市→石川市→東海岸の天願桟橋の11.2キロをトレーラーで運び船積みする予定。
・同年1月6日、美里村との住民懇談会で、案の定強硬な反対意見が続出、10日の懇談会も紛糾。屋良主席は10日夜にランパート高等弁務官に翌日11日に予定されていた毒ガス移送を二日間延期申し入れ。ここで高等弁務官をはじめ米側と揉めるが、高瀬侍郎大使の仲介で、ワシントンに指示を仰ぐことでその場は収まる。
・同年1月11日、高等弁務官から「延期OK」の連絡。この後屋良主席は沿道住民との折衝で、「次回の移送には別のコースをとる」ことなどを約束、これで事態が好転。
・同年1月13日、毒ガス移送作業は完了。
・同年7月15日、第二次移送スタート、9月9日に完了。美里村を避けて弾薬庫から基地内通過→具志川市→石川市→天眼桟橋のルートを利用。この間の米軍や住民折衝のいきさつは割愛。
沖縄タイムスの記事の経緯は、おそらく1月13日の第一次移送を終えてあとの話かと推測できます。ちなみに屋良氏は昭和46年1月6日、美里村での沿道住民の懇談に出席した際、「どうして安全といえるのか」と強硬な追及と突き上げにあい、毒ガス移送の責任者が主席にあるかのような扱いを受けて“奇異な感じ”がしたと回顧録に記載しています。おそらくそのあたりの複雑な感情が、会議における発言になったかと思われます。
ちなみに日本大使の高瀬侍郎氏は回顧録の〈証言〉で、屋良氏を絶賛しています(145㌻)。
屋良氏から「移送を強行すれば全村民が道路に座り込む。延期以外にはい」と連絡があり、高等弁務官邸に行った。屋良氏は「延期後のことは自分が責任をとる」と弁務官に迫った。なかなかの発言だった。この経緯から、三人の間に信頼感が生まれ、また「屋良の言行に信あり」と米軍も日本政府も屋良氏への信頼感を厚くした。これはその後の復帰準備の中で、屋良氏の比重を非常に重くした。(高瀬侍郎氏)
自由会議の場では厳しい発言が連発するのもやむを得ないでしょうが、だからといって「冷淡な態度」と切り捨てるのは余にも一面的な評価と言わざるを得ません。ちなみに第二次移送の際には美里村を迂回する道路建設など多額の費用が必要になったのですが、琉球政府では予算が出せないため山中貞則氏(当時総理府総務長官)との折衝で日本政府が全額負担(40万ドルほど)しています。当時の琉球政府の立場を汲み取って可能な限りの配慮をしていますが、この記事ではこのような点を完全スルーしているところが残念極まりないです。
屋良主席(当時)は回顧録の中で「ランパート高等弁務官、山中長官、高瀬大使と、それぞれ責任あるポストに適材の人がすわり、この三氏といっしょに復帰準備を進めることができたのは、私にとってたいへん幸運なことだった、と心底から思った」とも記述しています。だからこそ、該当記事には物凄い違和感を覚えざるを得なかったのです。
また、これが“偏向報道の一例だな”と妙に納得もしました。普天間基地の辺野古移設に反対するため、歴史的経緯を恣意的に解釈して一面に報道するという、ブログ主には極めて悪質な行為にしか見えません。このような報道機関が現実に存在していることに悲しみを覚えつつ、今回の記事を終えます。