今回も権力の継承をテーマにした記事を配信します。改めて第二尚氏の王位継承を調べたところ、ブログ主の予想の斜め上をいく驚きの仮説がいくつか思いつきましたので、今後の参考のために纏めてみました。
前回ブログ主作成の系図(3代尚真から7代尚寧まで)をアップしましたが、今回も試しに10代尚質王までの系図を作ってみました。読者のみなさん是非ご参照ください。
やはり前々回の記事で紹介したトートーメーのタブーからみると突っ込みどころ満載の王統になっています。ちなみに在位や続柄などを纏めた表も再作成しましたのでご参照ください。
第3代の尚真王の恣意的な判断(たぶん母親が怖かったのだろうと勝手に解釈していますが)で長男の尚維衡が廃嫡され、5男の尚清が後を継ぎます。尚家にとって救いだったのは、尚清王が(古代の)王としての役割を十分に全うしたことです。ちなみにその役割とは ① 在位期間が長い、② 世継ぎを残すことです。残念ながらこのときに王位継承のルールを定めていなかったため、この後も王統が乱れ傾向になります。
第5代王の尚元は、在位期間が短めですが、世継ぎはちゃんと残します。ただし長男が正妃の子でないという理由で次男尚永が王位を継ぎます。そしてこの判断が結果として王家にとって致命的な失敗になってしまったのです。
2代続けて世子が産まれなかった異常事態
第6代の尚永王は、娘2人をさずかりますが、肝心の世子は生まれませんでした。これは古代の王制にとっては一大事であって当然何らかの対策を講じる必要があります。本来なら前回記事で紹介したとおり弟尚久(尚元王3男)の子弟を養子に迎えて王位を継承させること、これが無難な処置になります。
だがしかし、尚永王は浦添尚家に嫁いでいた妹の息子(娘婿)の尚寧を養子に迎えて、7代目の王位を継承させます。これは父→子の男系継承の不文律すら破るきわめて異例の措置であり、見方によっては首里尚家から浦添尚家への王位禅譲とすら受け取られかねない所業です。ブログ主は冗談抜きで「尚永王は頭おかしくなったのか」と思いましたが、今となっては真実を調べる術はありません。
さらに尚家の異常事態は続きます。7代目の尚寧に世継ぎが誕生しなかったのです。ハッキリいって
2代続けて世継ぎが誕生しなかったなんて呪われているとしか思えません。
即位してから慶長の役(1609年)まで十分な時間ありますから、その間に子どもの1人や2人は出来てもおかしくありません。結局世継ぎは生まれなかったので、尚寧王はEDだったか、あるいは将軍家光のように”あっち系”だったのか本気で疑いたくもなります。
さらに不可解なことが続きます。浦添尚家の血を引く尚寧王は、首里尚家の血統である尚久(尚元王3男)の4男尚豊を養子に迎えて王位を継承させます。なぜ浦添尚家の血族を養子に迎えなかったのか、何のために尚寧を養子に迎えて7代王を継承させたのか。第6代と7代の王位継承にものすごい暗黒臭が漂うのは気のせいでしょうか、たぶん気のせいと思いたいブログ主であります。
正妃の子を差し置いて夫人の子が王位を継承
ちなみに8代尚豊から9代尚賢の継承も不可解案件です。尚豊は4人の息子がいますが、長男と次男は正妃の子で3男と4男は夫人の子です。長男は若くして亡くなったので次男が王位を継承するのが自然です。だがしかし、なぜか尚豊王は3男の尚賢に王位を継承させます。次男病弱説もありますが、正妃の子でしかも年長者を差し置いて夫人の子が王を継いだというのは王室内に”よほどの事情”があったかと思わざるを得ません。
しかも尚賢が在位6年で亡くなってしまい、しかも世継ぎがいないという大ピンチに見舞われます。そこでピンチヒッターとして尚賢の弟である尚質が即位して第10代国王となります。尚質王は在位20年で子沢山(7男5女)、そしてこの時から長子相続が継承ルールとして確定します。尚家にとって尚質王はまさに”中興の祖”とたたえてもおかしくない名君だといえるかもしれません。
以上おおざっぱに尚円王統の王位継承について言及しましたが、つまり内間金丸さんが王に即位してから200年ちかく経過して初めて王位継承のルールが確定したのです。この案件は時間をかけて調べると面白いことが分かるかもしれません。現在のブログ主のレベルではここまでしか言及できませんので、今後の課題として時間をかけて取り組んでいく予定です。(終り)