今回は「方言札」に関する史料をチェックする過程で、ついうっかり「標準語の効用」について気が付いた点を簡潔ながら当ブログにて纏めてみました。
その前に「標準語」という用語について言及しますが、外間守善先生によると明治時代に言語教育の場では「普通語」という言葉が用いられ、意外にもこの語句を積極的に使いだしたのは沖縄県が最初であり、そして現代でも使われている「標準語」は昭和12~13年あたりから「普通語」に変わって常用されるようになったとのことです。
実は、大日本帝国の沖縄において、標準語の普及は思わぬ効果をもたらします。それは我がりうきう・おきなわの歴史において史上初の「全県で通用する言語」が教育機関を通じてもたらされた結果、県内に「平等の概念」が浸透するキッカケになったのです。具体的には教育勅語によって臣民(=天皇陛下の前では平等)の観念が、大正10年(1921)の町村制の改正で「法の前の平等」の概念が、そして県民の誰もがコミュニケーションツールとして「標準語」を使いこなすことで、首里や那覇、地方あるいは離島の区別なく「立身出世」する道が拓かれたのです。
大事なことなので繰り返しますが、標準語は歴史上初の全県かつ(出身地や身分などの区別なく)誰もが使用できるコミュニケーションツールです。その意義は強調してもし過ぎることはありません。事実、尚家が支配していたりうきうでは王家や王族が使う言語と、地方で使われる言葉には大きな隔たりがあり、それが「差別」の一因になっていたのです。
それ故に(当ブログでも言及しましたが)標準語教育は首里や那覇よりも地方において熱心に行なわれたのです。
そして昭和20年以降のアメリカ世時代になると、サンフランシスコ講和条約によって日本の潜在主権が認められたのを機に、復帰運動の核として教育現場で標準語励行運動が進められます。つまり、アメリカ支配への抵抗の手段として、琉球住民たちは積極的に “標準語” を使うようになったのです。
大雑把に説明すると、標準語は大日本帝国時代には新時代の言語、とくに地方民にとっては(首里民や那覇民による地方差別からの)解放の言語として、そしてアメリカ世時代は “抵抗の象徴” として用いられてきたのです。現代のおいて、我が沖縄県民は日本人としてごく普通に標準語を利用していますが、時代のよって標準語の意義が変遷していた事実は頭の片隅においていたほうがいいかと思われます。
なお余談ですが、現代では「日本の植民地的支配によってもたらされた言語」との認識で、標準語に対してマイナスイメージを持たれるごく一部の県民が存在するのも事実です。しかも興味深いことに、その手の輩に限って「琉球言語」を持ち上げる傾向があります。ただし、その琉球言語とやらは我が沖縄の身分制度が甚だしかった古代から明治12年(1879)に用いられたものであり、ハッキリ言って社会における身分差別を大前提に利用されていた “いわくつきの言葉” なんです。
つまり標準語に嫌悪感を抱く一部の人達は、平等の観念の理解に乏しいが故に「琉球言語」を持ち上げているのです。しかも、差別の象徴である首里語をベースにした「ぼくのかんがえるさいきょうのうちなーぐち」の普及に取り組むことに何ら疑問を感じていない痛い人士すら存在します。そしてこれこそ現代社会における
ほうげんふらー
の一大特徴であると特筆特大して今回の記事を終えます。