本土と沖縄の「保守」の違いについて

本日フェイスブックの玉城有一郎先生の投稿に対して次のような返信がありました。

玉城有一郎 「再び問う。保守とは何か?私自身の為に。」

Akira Chinen 「僕は沖縄生まれの本土育ち。最近沖縄に戻って来ました。沖縄で保守を名乗る人たちは本土の保守とは少し違う沖縄ナショナリストだと感じます。根っこには「沖縄は日本と違う国」だという意識がどこかにあるのではないかと分析しています(中略)。

上記の案件はブログ主のレベルでは荷が重過ぎて、現時点では投稿者を満足させるような回答をすることはできません。ただしアメリカ軍の占領行政時代(1945~1972)を振り返ると、沖縄の保守が本土の保守に対して「沖縄ナショナリスト」と見られるようになった件には思い当たる節があるのでこの場を借りて紹介します。

アメリカ軍の占領行政時代に当時の沖縄を代表する政党として、昭和25年(1950)に社会大衆党が設立されます。初代党首は大日本帝国時代の沖縄県では歴史上最も有能な官僚の一人であった平良辰雄さん(1892~1969)、その影響か階級政党を志向しながらも、比嘉秀平氏や西銘順治氏などの保守勢力も参加しています。

戦後沖縄の政党は旧人民党(現在の共産党)を除くと、スタートは沖縄社会大衆党です。この社会大衆党(社大党)から昭和27年(1952)に保守政党として琉球民主党が分裂し、そして昭和34年(1959)に沖縄自民党が設立されて、現在の自民党の前進が誕生します。

つまり「階級政党」→「国民政党」を志向する形で保守勢力が結集して自民党が設立されたのですが、自民党沖縄県連(および他の保守政党)は現時点においても真の意味で国民政党に脱却していないのでは?と思わざるを得ません。国民政党の場合は「日本人は平等である」という建前があり(だから国内には階級対立がないと考える)、その前提で政策が立案されますが、沖縄の場合は戦後27年のアメリカ軍の占領行政の時代の影響で保守勢力内においても「沖縄は差別されているのでは?」という感が拭われていません。

この件に関しては、当時を生きた保守勢力(たとえば当間重剛氏や西銘順治氏など)の回顧録をチェック中なので、現時点では仮説として提唱します。近い将来ブログ主として何らかの回答が出せるよう努力するとして、下記にアメリカ軍の占領行政時代当時の政党活動の一環を知る貴重な記事を掲載しますのでご参照ください(終わり)。


「社大からの転進」の頃の思い出 西銘順治

~手弁当で署名運動した同志たち~

1950年、衆望をになって沖縄群島知事に当選した社大党、平良辰雄氏は51年12月に迫ったサンフランシスコの対日平和条約に間に合わせるために、挙党、日本復帰賛成の署名を始めた。

私は当時(沖縄群島政府)工務部副部長だったが、知念忠太郎経済部副部長、久場政彦財政副部長、嵩原久雄厚生部社会福祉課長、崎間敏勝広報室長らの若手と共に、全島くまなく行脚、署名を集めて歩いたことがあった。

当時は、仲宗根源和氏が琉球独立論を唱え、人民党は今とちがって、復帰への意思を明らかにせず、社大党ひとり、勝ち戦さの余勢を駆っての署名運動で、統治権者の意志を無視してやったようなものだった。

何しろ改造バスが幅をきかせていたころで、手分けして各村を回るにもトラックで、弁当も食うや食わずの強行軍だった。

現建運局長の新里善福氏が国頭村で、名村長とうたわれ、98%とかま最高の署名を集めたものだが、国頭の途中、日が暮れかかって、一同トラック上で悲壮な気持になりかけたころ、

源河みやらびや そこちなもん((現在の名護市)源河のキレイなお嬢さんが、そそっかしくも)

と唄い出した者がいた。嵩原氏である。一同何を歌いだすのかとびっくりしていると

はかまの破れから 帯捨てて

とやったものだから大笑いだった。

こうしてわれわれが集めた80%住民の署名嘆願書が吉田茂全権の手によって、ダレスに届き、対日講和条約におけるダレス発言となって、第三条に「琉球の潜在主権」が確認されたのであり、「平良知事は給料を払って復帰運動をさせているのか」とまで警告した米軍民政府の干渉を押し切った甲斐があったというものである。

~政局握った知念朝功氏の一票~

1954年、第二回の立法院選挙では、比嘉任命主席の強力なバック・アップにもかかわらず、与党、民主党は過半数を制し得ず、野党の社大、人民と同数、議員選挙のキャスチング・ボードは、無所属の知念朝功議員が握る形となり、知念氏をめぐって、社大、民主両党の争奪工作が演ぜられた。

当時、私は議員で(社大)党の政調会長。知念氏とは相許す仲だとの自負もあったし、自信もあって、知念氏から「社大候補に投票する」という暗黙の約束を得ていた。

いよいよ開会という日の朝早く、私は最後のダメ押しに首里の知念氏の家に行くと、すでに国場幸太郎氏と、与儀達敏氏が見えていた。彼らは苦笑しつつも、困惑の態で、私が退散するのを待っているようなので私はズケズケと言った。

「あなたがたが帰るまで、私はここを動きませんよ」

連中は止む得ない、というような顔をして席をたった。二人が立つと、

「頼むぞ」

と知念氏にダメ押して、すぐ二人の車を追った。二人の車が那覇に完全に入ったのを見届けると、その足で瀬長亀次郎氏の家に回った。人民党から「当然協力する」と確約があったが、これもまずはダメ押しというところであった。

ところが、瀬長氏は困ったことを言い出した。

「議長の平良幸市は異存はないが、副議長の長嶺秋夫は困る。宮城正行ならよい」

と言うのである。今ごろになって、と思ったが、瀬長氏は一旦いい出したらあとへ退かない男だ。

止むを得ず、いそいで緊急議員総会を開いてこれを討議した。今を時めく自民党の長嶺秋夫議員も当時は社大党一方の旗頭であり、長嶺氏には気の毒だが、この際、止むを得ないから、降りて貰おう、ということになって、何とかまとめた。これが遠因となって、長嶺氏も社大党を去って民主党に走ることになったが、人事問題というのは、政党でも重要なものだ。

民主党の下里惠良氏は、議長は平良幸市でもいいから、副議長は民主党にゆずれ、俺ならいいだろう、と議場でも盛んに工作したが、遂に下里副議長は誕生しなかった。

~バカヤロー事件~

平良幸市議長に人民党が投票した、というので、米本国では平良幸市もアカと思ったらしい。こちらのアメリカさんはそうは思っていないようだったが、本国から何とかいわれたらしく、平良議長に圧力を加えてきた。平良議長は副長官に呼ばれ、平良氏が、

「人民党が私に投票したのは、彼等の自由であって、私の知ったことではない」

と力説しても通らず、ヤッサモッサしているうちに社大党から4名が離党、遂に平良議長不信任案が上程され、民主党の新垣金造(故人)が、

「平良くんは軍から呼ばれ……うんぬん」

と言い出したので、私はカッとなって金造議員と議場でやり合い、ついには、

「軍から呼ばれたというのが不信任の理由か、バカヤロー」

とやってしまった。

「バカヤローとは何事か」

と金造議員もカンカンになったが、

「バカヤローだからバカヤローだ」

と私も負けず、議場大いに荒れたものだが、多勢に無勢、遂に平良議長不信任案は通過、与儀達敏議長が生まれた。

私も負けずに、比嘉主席不信任案を提出したが、勿論衆寡敵せず不発になったものの、当時、軍を後楯として旭日の勢いにある比嘉主席に、一発かましたことがせめてもの慰みだった。

~落選、国民政党を提唱~

1956(昭和31)年の第三回立法院選挙では23区(知念、佐敷)から立候補したが、宮城寛雄さんに80票差で破れ落選した。政治家として落選ほど気落ちするものはない。それに新党問題などもゴタゴタ起きてきて、すっかり政治に嫌気がさしてきた。

もう政治をやめて金を儲けるんだ、今後一切政治活動はしない、などと声明しているうちに、琉球造船再建委員会長の稲嶺一郎氏から琉球造船を引き受けてくれ、とたっての要請があったので、党籍を離脱して琉球造船と取っ組んだ。

事業をしながら、静かに政局を眺めていると、いつまでも社大、民主党と相別れて、限られた政治のなかでゴタゴタするのは、琉球そのもののためによくないのではないか。民主党のなかにも社大党的な物の考え方をする人もおり、社大党のなかにも民主党に近い考え方をしている人もいる。むしろ、社大、民主が一体となって、人材登用に意を配り、強力な政党をつくってアメリカに当るべきではないか、と考えるようになった。これが当間重剛氏が唱えた政治力の結集である。

世間ではこれを保守新党といったが、これは妥当ではないと当時から思っていた。

独立国家の政党ではないから、琉球の政党は、住民の意志を率直、簡明に要求する国民連合のような政党、これだった。党利、党略を離れ、民族自決のたて前から見れば、民主、社大には共通の場がある。その共通の場に立って政治をすべきだと主張したのが、二頭だて政治などといわれ、結局は理想倒れとなった。

これが社大の反撃を食い、私は社大から遠のくようになったが、今でも決して後悔はしていない。

当間氏が主席となってからは、それまで比嘉主席のもとでは陽の目をみなかった社大系の人々が続々登用された。万年野党に甘んずる志は壮とするが、人材を埋もらすに忍びない。当間さんとわれわれはこう考えたのだ。

~清貧に甘んずれば家族餓ゆ~

これは余談になるが、政党人は清貧をもって尊しとす、などといわれるが、万年野党の社大党の役員のなかには随分、家族に辛い思いをさせた人々も少なくなかったものだ。そして、社大が政権をとれぬままにあたら人材を埋もらせる結果を招いている。人材の少ない沖縄にあって、これではだめだと私たちは考えたのだ。

知念朝功氏だって、官房長をするよりは弁護士をやった方が、どんなにか収入がいいか分かりはしない。社大党がどう思おうが勝手だが、社大党の人間だからと、いつまでも野に置く手はない。

資本主義は修正されつつある。政治はたえず前進する。社大党と自民党との政策の間には何も異なるものはないではないか。

私が社大党から自民党に移ったのが、とやかくいわれていることは重々知っている。しかし、私はかえりみてやましいことはない。

社会主義に対する理念は、自民党内にあっても取り入れ、前向きの政治をするようにつねに心がけている。

社大党の平良幸市、良松、安里積千代氏らとも、党という問題を離れては、変わらない友情を持ちつづけている。即位復帰は住民の意志であり、政治の目標であり、沖縄の諸問題の抜本的な解決は祖国に復帰する以外方法はない。どうすれば復帰の態勢を整え経済を混乱させることなく復帰させるか。この段階を一つ一つ踏むのが政策である。

社大党に望むことはいい意味での二大政党として、共通の問題を話し合う広場を持ちあらゆる階層を含めての福祉増進をはかり政治を前進させようと、ということである。

*この記事は昭和36年に琉球政府局長であって筆者(西銘順治氏)が『月間沖縄』11月号に寄せた「転身の動機」である。

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