当ブログでめずらしく長々と取り上げることになった「新潮45」に寄稿された杉田水脈衆院議員の論文「LGBTの度が過ぎる」ですが、いろいろ調べているうちに面白いことに気が付きました。7月25日の朝日社説を筆頭に、彼女の論文を非難する論調が目立ちますが、これらを読むと彼女の論文を本当に読んで批判しているのか極めて疑問に思わざるを得ません。
とくに「生産性」という単語に過剰反応するあたり、「優生思想」まで持ち出して彼女を非難する論調は失笑ものです。彼女の論文を読んでいないか、読解力が足りないか、あるいは理解する気がないのどちらかでしょう。当ブログでもすでに指摘しましたが、いったい杉田さんどれだけ恨まれているのか、すごく気になります。
今回はブログ主なりに杉田論文の反論文を調子に乗って作成しました。まぁそれなりの出来になりましたので、賛否はおいといて読者のみなさんぜひご参照ください。(こうやってまとめればよかったのにという感じでしあげました)
「『LGBT』支援の度が過ぎる」に対する反論
7月18日発売の「新潮45」に寄稿された杉田水脈衆院議員の論文「『LGBT』支援の度が過ぎる」について2,3気になる点がありましたので、この場を借りて私の意見を述べさせていただきます。
杉田さんの論文は「LGBTの人は差別されている」という前提に疑問を呈するところから始まっています。そして彼ら彼女らの「生きづらさ」の本質は自分たちの親が理解しないことであるとのご指摘は実に的を得ています。
彼女は現実としてLGBTの人たちが既成のメディアが報じるように社会から差別されているのか、日本の社会は歴史的に性的少数者たちへの迫害はなく、むしろ寛容であったと述べています。歴史的には確かにその通りですが、ただし性的指向・性自認を抱えている層が一定数存在して、何らかの生きづらさを抱えている現実は無視できません。
LGBTの人たちの抱える最大の問題は「親が認めてくれない」ことですが、この点について杉田さんは「これは制度を変えることで、どうにかなるものではありません」と述べています。だがしかし、制度を変えることでゆっくりではありますが人の意識を変えることはできます。1世代あるいは2世代の長いスパンが必要でしょうか、社会制度にある程度の変更を加えることによって、性的少数者の生きやすい社会を目指す政策は検討に値するのではないでしょうか。
社会制度の変更に行政が動く、その際には税金を投入するということになります。杉田さんはLGBT支援のために税金を使うことが果たしていいかと指摘していますが、彼女は有権者によって選出された政治家であり、税金の使い道に対して疑問を呈するのは正しい感覚です。子育て支援等に行政が積極的に支援をするなら”大義名分”が得やすい、ただし子供を産まないカップルに対して”多様性社会の構築”の名目で支援を訴えることで、果たして有権者が納得するのか?「生産性」がないというキツい表現を使っていますが、彼女が言いたいのは「LGBT支援に対して本当に有権者あるいは世間は納得しているのか」です。
この点に関しては杉田さんのご指摘通りです。だがしかし現実として性的少数者が生きづらい状況もあるため、民間でカバーできない部分は行政で対応する必要があるのでは、つまり民間でできる部分は民間にまかせ足りない部分は行政が対応する方針であれば”大義名分”が得やすいと思われますがいかがでしょうか。
多様性を受け入れる点についてですが、社会には確固たる原理・原則があり、そして例外がある、その例外を認める範囲をどこまでひろげるかがカギになります。人間社会は「男と女の関係」が大前提で性的少数者はあくまで「例外」です。LGBT支援は「例外」に正統性を与えることではありません、あくまで認める範囲を広げるだけです。この点を勘違いしている人は意外に多いかと思われます。
既存のマスメディアがLGBT支援を報道しても、日本社会における秩序や常識はそう簡単に崩壊するとはとても思えません。例外にある種の正統性を与えることは「革命」につながりますが、本当に日本人がそのような選択をするとは考えられません。社会大衆の理性をもう少し信用すべきでしょう。一部マスコミの力をことさらに過大評価しているのではないでしょうか。
性的少数者が何らかの生きづらさを感じている現実に対して、民間で対応できない部分は行政が何らかの支援を施してもいいかと存じます。「LGBT支援の度が過ぎる」とのご指摘はごもっともですが、度が過ぎない支援なら”大義名分”は得やすい、そのあたりのバランスを考慮した支援策なら検討の余地は十分にあると筆者は確信しています(終わり)。