最初の遊學生 – 高嶺朝敎翁の談

今回は太田朝敷関連の史料として第一回県費留学生として上京した高嶺朝教氏の談話を掲載します(リンク先写真前列右側の人物)。第一回県費留学生の派遣は我が沖縄の歴史にとって重要な意義を持ちます。理由は彼等が琉球・沖縄の歴史上で初めて自発的に断髪したことで”伝統主義の束縛”から自らを解放することに成功したからです。そしてそのことがエリートとしての彼らの人生を決定つけることになります。だがしかし高嶺氏の回想にも明治天皇への拝謁については一言もふれていません。この点はさておき、今回はブログ主にて現代語訳と原文を併せて掲載します。読者のみなさん、是非ご参照ください。

●最初の遊学生 – 高嶺朝教翁の談(現代語訳)

本県最初の遊学生として明治15年(1882年)11月那覇を立ち黒潮の唸(うな)りに燃ゆる青春の希望と歓喜を乗せ、笈(きゅう)を負うて上京した高嶺朝教氏を首里市山川町の宅に訪ふ。雨の中をやって来た記者は簡素な応接間に通された。そこで御主人の朝教氏が白髪の温容さで「ヤァようこそ」だ。雨続きで困りましたね、執拗な天気で困るがどうですか、と偖(さ)てここらで話の緒を開こうと思う。

「留学当時の御一行は?」

「岸本賀昌(きしもと・がしょう)、太田朝敷(おおた・ちょうふ)、謝花昇(じゃはな・のぼる)、今帰仁朝蕃(なきじん・ちょうばん)に私を入れて5名です。全部勿論結髪です。那覇を立ったのが(明治)15年11月(16日)で平安丸という400㌧級の小船で大島から4,5日天候険悪で延期し、ようやくのことで神戸に着し永い日子を費やして東京に着きましたが、何しろ沖縄から最初の遊学生であるし、年も若く私が15で年長の者が18でした。芝に宿をしました。

当時の県令上杉茂憲(うえすぎ・もちのり)氏の命によって遊学したのですが学習院に入りました。院長が確か谷干城(たに・たてぎ)先生と覚えていますが、後で立花(種恭)子爵がなられましたが主として華族の子弟が多かったようですね。

私たちは言葉が余り上手でなかったものですから、まぁ交際範囲も狭く常に此の5人が一緒になっていたのです。軽蔑は余りされずに済みましたが、矢張り異人種だよ!と云ふ観念が彼等の頭にはあった筈です。丁度あの時分ハワイは王国で、向ふからアイゼツキと云ふのとゼームスと云ふ2人のハワイ人が留学していましたが、私たちに対しても異人種的な見方を持っていたようです。そうですな、困ったというのは他の生徒は断髪だが、吾々5人は結髪なのですから髪の手入れには相当骨が折れましたね。ところが(明治)16年末断髪の問題が起りまして神田の開化楼という所で、それは今もはる筈です。そこで親睦会がありましたがその晩に断髪しました。岸本君など其の后(ご)、婚礼のため帰郷する際、今更結髪も出来ず僅かばかりの髪へピンをつけて帰りました」

「当時東京の社会狀態は?」

「そうですね、私たちは年若くしかも学生なので別に之れと云って深く感じることはなかったですが、経済界方面を見ると物価がいまと比較して驚くべき程の安価でした。時代がその時代ですからね、県から7円貰っていましたがそれで充分でした。下宿料が2円60銭だった筈です。学生ですから食もしましたが牛肉が1人前5銭で飯が2銭ソバですね、それから6厘でして交通機関としては馬車がありましたが円太郎馬車と云って汚れ車だったです。隔世の感がしますね、何しろ沖縄から行ったものですから如何に東京がその当時文化状態が低かったと云っても見るもの聞くものが珍しかったです。結髪で道にもでましたが、矢張珍しそうに吾々を眺めていました。九段の琉球屋敷のお爺さんも歩くので見慣れてはいたでしょうけれども。」

「その5人の進路は?」

「謝花君が農科へ行くし、太田岸本の両君が高等師範で、今帰仁君が帰郷し私が慶應義塾に入りました。」

「学習院と慶應との感じの相違は?」

「そうです、学習院は家族の子弟が多かったためか何となくしかつめらしい所が多く軍人向けの教育でしたが、慶應の方はのんびりとして自由主義的な感がしました。」

「失敗談を承りたい」

「別に交際を広くやっていないものだから大した失敗はなかったが、矢張り言葉の上で度々の失敗はありました。床屋で、床をとりましょうか、というと其の意が充分に通ぜぬものですから、この床は取ったり下したりするのものか、というような調子でしたが、大分慣れました。今考えると良く通して暮して来たと考えています。」

で、あっさりと片付けて了(しま)うが「年をとって記憶も確かではないので思うように話せない、太田君に訊ねた方がいいですよ」と朝教氏は温雅な微笑みを浮べる。

記者は敢(あえ)て追及するをやめて、新鮮な記憶を掘出すべき次の訪問者へ向わねばならぬ。で、サヨナラして宅を辞した。

●最初の遊學生 – 高嶺朝敎翁の談(原文)

本縣最初の遊學生として明治十五年十一月那覇を立ち黒潮の唸りに燃ゆる靑春の希望と歡喜を乘せ笈を負ふて上京した高嶺朝敎氏を首里市山川町の宅に訪ふ。雨の中をやつて來た記者は簡素な應接間に通された。そこで御主人の朝敎氏が白髪の溫容さで「ヤァようこそ」だ。雨續きで困りましたね、執拗な天氣で困るがどうですかと、偖てこゝらで話の緒を開かうと思ふ。

「留學當時の御一行は?」

「岸本賀昌、太田朝敷、謝花昇、名歸仁朝蕃に私を入れて五名です、全部勿論結髪です、那覇を立つたのが十五年十一月で平安丸といふ四百頓級の小船で大島で四五日天候險惡で延期しようやくのことで神戸に着し永い日子を費して東京に着きましたが何しろ沖繩から最初の遊學生であるし、年も若く私が十五で年長の者が十八でした。芝に宿をしました。

當時の縣令上杉茂憲氏の命によつて遊學したのですが學習院に入りました。院長が確か谷干城先生と覺えてゐますが後で立花子爵がなられましたが主として華族の子弟が多かつたやうですね

私たちは言葉が余り上手でなかつたものですからまあ交際範圍も狹く常に此の五人が一緒になつてゐたのです。輕蔑は余りされずに濟みましたが矢張異人種だよ!と云ふ觀念が彼等の頭にはあつた筈です、丁度あの時分ハワイは王國で、向ふからアイゼツキと云ふのとゼームスと云ふ二人のハワイ人が留學してゐましたが、私たちに對しても異人種的な見方を持つてゐたやうです。さうですな、困つたといふのは他の生徒は斷髪だが吾々五人が結髪なのですから髪の手入れには相當骨が折れましたね。ところが一六年末斷髪の問題が起りまして神田の開化樓といふ所で、それは今もある筈です。そこで親睦會がありましたがその晩に斷髪しました。岸本君など其の后、婚禮のため歸郷する際今更結髪も出來ず僅かばかりの髪へピンをつけて歸りました。」

「當時東京の社會状態は?」

「そうですね、私たちは年若く而も學生なので別に之れと云つて深く感じることはなかつたですが經濟界方面を見ると物價が今と比較して驚くべき程の安價でした、時代がその時代ですからね、懸から七圓貰つてゐましたがそれで充分でした。下宿料が二圓六〇錢だつた筈です。學生ですから食もしましたが牛肉が一人前五錢で飯が二錢ソバですね、それから六厘でして交通機關としては馬車がありましたが圓太郎馬車と云つて汚れ車だつたです。隔世の感がしますね何しろ沖繩から行つたものですから如何に東京がその當時文化状態が低かつたと云つても見るもの聞くものが珍しかつたです結髪で道にも出ましたが矢張珍しさうに吾々を眺めてゐました、九段の琉球屋敷のお爺さん達も歩くので見慣れてはゐたでせうけれども。」

「その五人の進路は?」

「謝花君が農科へ行くし太田岸本の兩君が高等師範で名歸仁君が歸郷し私が慶應義塾に入りました。」

「學習院と慶應との感じの相違は?」

「さうです、學習院は華族の子弟が多かつたゝめか何となくしかつめらしい所が多く軍人向の敎育でしたが慶應の方はのんびりとして自由主義的な感がしました。」

「失敗談を承りたい」

「別に交際を廣くやつてゐないものだから大した失敗はなかつたが矢張り言葉の上で度々の失敗はありました、宿屋で、床とりませうか、といふと其の意が充分に通ぜぬものですから、この床は取つたり下したりするものか、といふような調子でしたが、大分慣れました。今考へると良く通して暮して來たと考えてゐます。」

で、あつさりと片付けて了ふが「年をとつて記憶も確かでないので思ふように話せない、太田君に訊ねた方がいゝですよ」と朝敎氏は溫雅な微笑を浮べる。

記者は敢て追求するをやめて、新鮮な記憶を掘出すべき次の訪問者へ向はねばならぬ。で、サヨナラをして宅を辭した

●昭和7年3月20日付、琉球新報(天野鉄夫文庫より)