今回は昭和44年と46年のゼンリン地図を参考に、地元宜野湾の普天間地区の散策記事をアップします。前回の沖縄市照屋地区の散策で痛感したのですが、昭和44年のゼンリン地図が建物名の誤記が意外に多いため、今回は昭和46年および必要に応じて現代の地図も参照しました。
ただし当ブログの散策記事は “じわじわ感” をコンセプトに作成しますが、今回は例外的に “アンダーグラウンド” をテーマに記事をまとめてみました。ゼンリン地図だけではなくアメリカ世の新聞をも参照して、普天間地区の過去現在を紹介しますので読者のみなさん是非ご参照ください。
普天間のすずらん通りに掲げられている住所表示案内図をアップします。今回は①から⑥までの場所について言及します。
① 国際パチンコ(現・さんしんの松田)
・昭和44年のゼンリン地図を参照すると、同場所は “国際パチンコ” とあり、ブログ主の記憶するかぎりでは昭和60年ごろまで営業してました。「沖縄興行伝説」によるとパチンコ店の前は “普天間琉映館” という映画館が開館していたとのこと。
・ただし外観を見る限り建物の老朽化が著しく思えます。
・昭和42(1967年)10月19日付琉球新報に国際パチンコに関する記事が掲載されていましたので紹介しますが、この物件は喜舎場朝信絡みだったんですね。
普天間派が反撃 / パチンコ店のガラス割る
【普天間】同日午前11時半ごろ田場殺害に怒った普天間派組員3人が普天間署斜め向かいにある喜舎場朝信関係する国際パチンコ店に反撃のため押しかけ、ガラス窓を割ったが、店員に騒がれ引き上げた(中略)
引用元:昭和42年10月19日付琉球新報夕刊3面
② グランドパレス(現・沖縄ケーブルネットワーク(株) 中部センター)
・さんしんの松田から普天間三差路の歩道橋を渡ると、かつて映画館が開館していた場所があります。ゼンリン地図ではパリス映画館(昭和44年)、パレスランド映画館(昭和46年)と記載されていますが、「沖縄興行伝説」に記載されている “グランドパレス” がどうやら正しい名称のようです。市報ぎのわん(2014年12月10日)の記事にも “グランド・パレス” と表記されています。
③ 開放地琉映館(現太陽マンション3)
・昭和44年と46年の地図を参照すると、この場所に映画館が開館していました。現在ではその名残すらありません。
・隣のビルのオブジェがじわじわきます。
・近くにあった建物にはさすがに突っ込まざるを得ません。
・ちなみにこの場所の近くには昭和44年と46年の地図を参照すると、トルコ風呂が営業していましたが、昭和52年のゼンリン地図あたりからなくなっていました。もちろん現在では跡形もありません。
④ 普天間派組員射殺現場
このあたりから一気にアンダーグラウンドのレベルがアップしますが、昭和42(1967)年5月14日午前10時過ぎに、この場所で普天間派組員が射殺されます。事件の詳細については割愛しますが、実はこの事件は我が沖縄の暴力団抗争における初の射殺案件です。
・旧郵便局通りから万年通りに抜ける小道で事件は発生しました。
・昭和42年当時は開放地琉映のところに普天間派経営の、この場所に山原派経営のビリヤード場がありました。普天間派組員が山原派のビリヤード場に殴り込みをかけた際に惨劇が起こったのです。もちろん現在では名残すらありません。
⑤ 山原派組員による泡瀬派組員殺害事件
昭和40(1965)年8月28日午後9時ごろ、宜野湾市普天間のすずらん通りで泡瀬派経営のスナックに山原派がタクシーに乗り込んで殴り込み、その際に泡瀬派組員が刺殺されます。実行犯たちは本土に高跳びしますが、以前当ブログでも言及した通り彼らは大阪で逮捕されて裁判にかけられます。この事件が結果として “本土の聖域化” を崩すことになったのです。
⑥ 新城喜史殺害未遂事件
昭和37(1962年)12月5日昼ごろ、普天間すずらん通りに当時営業していた遊技場前で、コザ派新城喜史が那覇派の田場盛孝(当時)にあやうく猟銃で殺害されかかるというとんでも事件が発生します。
・当時の新聞を参照すると、⑥の場所に田場経営の “セントラル遊技場” があり、そこで事件は発生しました。もちろん現在では建物すら存在していません。
・昭和37年12月6日付琉球新報7面から記事を書き写しました。ぜひご参照ください。
暴力団、普天間で対立
猟銃をあわや発砲 / 白昼、警察署のおひざ元で
【普天間】暴力団の反目が激しい5日白昼、普天間署と目の鼻の普天間繁華街でコザ派と那覇派の暴力団が対立、猟銃をつきつけ発砲寸前に通報でかけつけた警官隊でことなきを得たが、一味は猟銃を以て自動車で逃走するという事件が起きた。
5日午後4時過ぎ宜野湾市字普天間163、セントラル遊技場前路上でコザ〔市〕嘉間良578田場盛〔孝〕(35)喜名某の那覇派幹部と新城〔喜史〕、仲間義正のコザ派幹部の暴力団4人が対立した。
普天間署の調べによるとコザ派の2人は那覇へ行く途中普天間で田場に出合い、田場が経営するセントラル遊技場で車を下り最近の両派の対立について話していた。するとコザ派の2人が自分を襲いになぐり込みをかけたと勘違いした田場はいきなり家の中から猟銃を持ちだして新城〔喜史〕に向けて発砲しようとした。それを見た付近の人が普天間署に急報。かけつけた警官の姿をみた田場と喜名は猟銃をもったまま車で那覇方面に逃げた。新城喜史は任意出頭をもとめられ、普天間署で取り調べを受けたが、仲間は現場から逃走した。
対立現場は宜野湾市普天間の “すずらん通り” で普天間署から100㍍と離れていない目と鼻の繁華街。付近の人の急報で流血をまねく大事にいたらなかったが、警察の前でしかも白昼暴力団の不穏な対立があったのに対して付近の住民はおびえている。(中略)
引用元:昭和37年12月6日付琉球新報7面
なお、この時に新城喜史が殺害されていたならば、沖縄ヤクザの歴史は大きく変わっていたこと間違いありません。殺害未遂事件に終わったことが結果として後年田場本人の首を絞める羽目になったあたり、アンダーグラウンドの世界の恐ろしさを実感します。
いかがでしょうか。普天間地区は現在は閑静な住宅地ですが、振り返ってみると沖縄ヤクザ史に大きな影響を与えた事件が起こっています。今回はアンダーグラウンドをテーマに散策記事を作成しましたが、普天間地区が主戦場になった第三次沖縄抗争については後日改めて当ブログにて言及することを約束して今回の記事を終えます。