昭和の沖縄社会とヤクザ

今回は、本来であれば5月15日に合わせて公開予定だった “沖縄ヤクザ関連” の史料をアップします。前回は復帰50周年の記念日のため、できる限りいい記事を選んで当ブログで紹介したわけですが、今回は “ガチ” な内容となります。

昭和52年(1977)8月11日、那覇市の琉真会事務所前で警備中の警官に対し、旭琉会の組員が銃を乱射した事件については、すでに当運営ブログでも紹介しましたが、今回はその続編です。事件から5日後の16日、沖縄県警が多和田真山会長の愛人宅ほか3カ所を家宅捜索しますが、そこで警官が驚くものを目にします。当時の沖縄社会とヤクザとの “腐れ縁” を伺うに足る十分な史料なので、全文をアップします。解説は不要、読者のみなさん、是非ご参照ください。

旭琉会アジトなど捜索

県警証拠書類20点を押収

【沖縄】銃器類を使用した暴力団の抗争事件がエスカレートしているおり、県警捜査二課は那覇とコザ署の応援を得て捜査員総勢70人を動員、16日午前7時から9時までの間、那覇と沖縄市で暴力団旭琉会のアジトなど3カ所を銃刀砲違反の容疑で家宅捜索し、代紋や幹部名簿など証拠書類20点を押収した。凶器となっている銃器類は発見されなかった。沖縄市での手入れは那覇での発砲事件の出撃拠点となっているアジトをたたくのがねらいで、この県警の先制攻撃に組員はあわてふためいていた。

この日手入れを受けたところは、那覇市前島3の5の6、ナニワ造花グループのアジト、沖縄市嘉間良683、暴力団旭琉会の多和田真山会長(44)宅。同市諸見里871、旭琉会アジトとなっている多和田会長の愛人(30)宅の3カ所。

沖縄市諸見里のアジトと多和田会長の愛人宅には捜査員約25人が動員された。アジトは鉄筋コンクリート造り二階建ててで、窓という窓は襲撃に備えてアルミ格子がはめられ、人のはいるすきまさえない。玄関入り口には約4㍉の厚さの鉄製トビラが固く閉ざされていた。捜査員が捜索令状をもってふみ込んだときには、組員3人、多和田会長や同旭琉会の座安久市理事長(43)の愛人ら女4人、それに子供2人が寝込んでいた。捜索令状を前に組員らは何の抵抗も示さなかったが、あわてた様子だった。二階の居間の壁には

多和田会長に対する海洋博協会からの感謝状

がかかげられており、これには手入れに当たった捜査員も苦笑いする一幕も。銃器類は発見できなかった。同アジトの壁には旭琉会幹部や参与の連絡所、本部当番表などが張られていたが押収された。

沖縄市嘉間良の多和田会長宅には当の会長はいず、捜索に来た捜査員はガッカリ。しかし、貝で形どられた50㌢四方の代紋があり、証拠品として押収した。

那覇のナニワ造花グループのアジトからも目当ての銃器類は何ひとつ発見されず押収したのは書類だけ。しかし、アジトには16歳になる家出少女(那覇市小禄出身、無職)がいたため、同少女を補導した。この少女は約2カ月前から同アジトに出入りしていたという。(昭和52年8月16日付琉球新報夕刊3面)