今年は我が沖縄が本土復帰して52年目になりますが、ブログ主は試しに復帰後の沖縄社会の史料、特に新聞記事を重点的にチェックしてみたところ、非常に興味深い高齢者に関する記事を見つけました。
今回は、昭和49年12月26日付沖縄タイムス朝刊8面に掲載された国際通りの夜店で働く女性についての特集記事を紹介します。たしかに昭和から平成の半ばごろの平和通りでは、記事に登場する彼女のように、タバコや小物を売るオバーたちが店を構えていました。懐かしいと思う反面、戦前戦後を生き抜いたたくましい女性の姿を垣間見える貴重な内容となっています。読者のみなさん、是非ご参照ください。
街の素顔
樋川の平良タツさん(76)/ 25年間も国際通りで夜店頑張る
夜のとばりがおりた那覇市国際通りでたばこやお菓子を売るおばあちゃん。25年間この方、雨の日も風の日もがんばり通している。「おばあちゃんケントちょうだい」千鳥足のホステス。「コレクダサイ」手まねの外人さんと客筋は雑多だ。このおばあちゃんは那覇市樋川69、平良タツさん(76)。平和通りと国際通りの交差する一角で夜店を出し、往来の中に描き出される幾多の人生模様を見続けてきた。
道行く人には単なる物売りのおばあさんとしか映らない。何べんガムを買おうが、チョコレートを買おうが、人に誤解されようがおばあさんはその “素顔” を見せなかった。タツさんは、「どうして私が夜店を出して昼間は出さないか。子供は何をしているのか – と世間の人は不思議に思っているでしょう」と前置きしてこう語った。「実は、私の母親が26年前、縁側から落ちて骨折した。小禄、首里の病院を捜し回っているうちに母は破傷風にかかり、医者からも見放された。どうせ死ぬなら家でと帰宅し、めくらめっぽう素人療法したら元気を取り戻した。その後、失明した。が一命はとりとめた。母がガーブ川に店をもっていた。昼間は母の面倒を見なければならず色々と商売をかえた。そこでやっと見つけたのが夜店、夜は母も手がかからないし、夜の商売はもってこいだった」と。
その母親も89歳でなくなった。「気がついてみたら私も72歳のおばあちゃんになっていた。いまさら商売替えしても…と嫁いだ娘の反対を押し切って今も夜店を続けている」とタツさんはつけ加えた。“自分の口は自分でもつ” 明治女の気丈さが伝わっている。家は自分のもの。土地は借りもの、地料、生活費の一切は自分でまかなっている。「養老院も救済も今の私には無縁」 – 仕事のハリとなっていた母親の死後も変わらないがん張りぶり。
クリスマスイブのどしゃ降りの中、タツさんは仕事に出かけるつもりでいた。その時「おばあちゃんはもう一人なんだから体に気をつけなくては…」との娘の言葉が脳裏をかすめ思いとどまったという。80歳に手の届きそうなおばあちゃんが病気一つせず “サーサー雨グヮー” 程度なら家にじっとして居られないほどの元気である。薄暗い道端でいかにも同情をかいそうなおばあちゃんの姿には、病気の母を背負って懸命に生きてきたたくましさと情愛の美しさがにじむ。(昭和49年12月26日付沖縄タイムス朝刊8面那覇市内版)