平成28(2016)年5月からスタートした当運営ブログですが、その際に記事作成のため数多くの新聞記事を参照してきました。必要に応じて OneNote などの保存ツールに記事を写本してきましたが、最近になって気が付いたことがあります。それは昨今の(たとえば)ネット上における著しいマスコミ不信は “起こるべくして起こった” ということです。
ちなみにブログ主は明治27(1894)年の現存する琉球新報(12月16日)から大正、昭和、平成、そして令和に至るまでの数多の記事をチェックしてきました。そこで痛感したのが、既存マスコミは今も昔も “啓蒙主義” の方針で記事を配信している点です。
その前に補足として、新聞やTVなどのマスコミの義務について説明します。それは “情報をタイミングよく配信する” の1点だけです。そして報道後の反響や社会的な影響に関しては責任を負う必要はありません。具体的にはどんなに素晴らしい内容でも発表のタイミングを間違えるとニュースの価値は暴落します。つまり報道するまでの過程(プロセス)が極めて重視されるのです。
この考え方は常に結果責任を問われる政治家とは逆です。政治の世界は “結果オーライ” が罷り通ります。具体的にはどんなにすばらしい理念を持っても、大衆の人気があっても、そして政策実行の過程が理想的に進行しても、結果を出さないとアウト判定が下されるのです。
ここでちょっと意地悪な質問です。「違法に入手した情報は報道すべきか」と問われたとき、あなたはどのように回答しますか。正解は「その情報が報道すべき内容であれば、入手経路の違法性は問わない」です。つまり報道すべきと判断したら、あとは発表のタイミングを間違えないこと、これが報道機関の義務になります。そのために “ニュースソースの秘匿原則” は存在するのであって、もしもマスコミ各社が順法精神で会社を運営したら、あすからニュースを配信できなくなること間違いありません。
ここまで報道機関の義務について説明してきました。それを踏まえて昨今のマスコミ不信は、
世論を誘導する報道が多すぎることへの反感
に尽きます。
我が沖縄は明治26(1893)年に琉球新報が創刊されて以来、一貫して “啓蒙主義” の立場で新聞社は運営されてきました。啓蒙方針は時代によって異なりますが、”大衆を導く” というスタイルは全くと言っていいほど変わっていません。例えば明治の時代であれば “忠君愛国” であり、現代であれば “辺野古新基地反対” です。権力を監視するとのお題目のもと、新聞社が設定する “正義” を前面に押し出して大衆を誘導するスタイルはまさに “機関誌” そのものであり、はっきりいって時代遅れです。誤解を恐れずにはっきり言うと、
結果責任を問われない分際で世論誘導を試みるような報道姿勢は不愉快だ
というのが現代人の本音ではありませんか。しかも啓蒙と営利が密接不可分のためもはや運営姿勢を改めるのが極めて困難になっているのです。
現代は保守、革新、そしてリベラルに限らず啓蒙を前提とする情報発信は避けられる傾向があります。この現象は50年前には見られなかったもので、それだけ “内面の良心の自由” が社会に浸透している証でもありますが、そこに気が付いても改めることができず、啓蒙思想的な発想で情報を発信し続ける沖縄マスコミはお先真っ暗と言わざるを得ません。そして近い将来に残念ながら消滅の憂き目にあっても不思議ではないと確信しているブログ主であります。