今回は明治29(1896)年に首里区(現在の那覇市首里)で発生した天然痘のクラスター騒動について言及します。『琉球敎育巻2』の明治29年11月号に、首里区内の天然痘流行に伴い “女子講習科” および “首里高等小学校” などの敎育機関が一時休校になった旨の記事が掲載されていました。
喜舎場朝賢著『東汀随筆』によると、我が琉球・沖縄の歴史においては13年周期で天然痘が流行するとの記述があります。著者が経験した嘉永4(1850)年の流行のすさまじさは一言で言えば “ドン引き” の内容で、この記述から琉球の民にとって天然痘がいかに恐ろしい病気だったかを実感できます。すこし話がそれましたが、明治29年の流行に関する記述を紹介しますので是非ご参照ください。
因に云ふ、天然痘の畏るべきは今更に説くを要せず。その病㔟の猖獗なるに当りては、蔓延の迅速なる、彼の虎列刺(コレラ)よりも一層激烈なる者あり。初め首里区(当時)に蔓延せしといふ由来を聞くに、1人の該患者を那覇区(当時)泊村より出せし時、首里区真和志の者にして、その看護に行きたる者ありて、家に帰りて後、その小児先づ感染し、これより漸次にその近隣に伝播し、遂に50余人の患者あるを発覚せらる。しかしてその死亡せし者25人の多きに及べり。その後益々蔓延伝播し、1日にして患者6人を増加し、また1日にして9人を増加し、あるいは儀保より出て、あるいは山川より出て、あるいは赤田より出て、あるいは桃原、当の蔵より出づ。(下略)
読者の便宜を図るべく、旧漢字は訂正し、一部句読点を追加していますが、この記述からもクラスター(集団感染)の様子がハッキリと伺えます。続きは下記引用をご参照ください。
しかるに皆(首里区内)真和志に関係ありて、相往来せし者のみ、かつ彼らは不学無識、頑陋なる結髪者にして、1回も種痘をなさざる者のみの由なり。しかして皆病を畏るるを知らず、反て(かえって)病院に入るを畏れ、感染の兆候ありも固く之を隠蔽し遂にこの惨毒に罹るの不幸を招けり。さればその当局者において、これに注目あるは勿論の事なれども、教育者においても宜しく少しく意を衛生予防上に留め、なるべくこれを等閑に付せざる様せらるべく、特に希望に堪えざる所なり。(琉球敎育巻2 / 明治29年11月号)
この記述における極めて興味深いところは、当時の住民が現代医学を信用せず、それが返って感染拡大を招いてしまった点です。この事実は当時の為政者に対する不信というよりも、廃藩置県前は民間の衛生に関しては王府の関心が薄かった裏返し*かと思われます。実際に『球陽』には衛生予防に関する記述が見当たりません。明治期にはいって『琉球新報』などの言論機関が口やがましく衛生について論じていたのとはあまりにも対照的です。
*参考までに喜舎場朝賢著『東汀随筆』には人痘種痘法の記述があり、著者もそれを受けたとあります。
波の上宮に “仲地紀仁顕彰碑” が建立されていますが、彼が牛痘法を行ったのは1850年ごろと言われています。ただしそれから50年近くを経過しても民間に牛痘法が普及していなかったのは驚きであり、明治期の沖縄県庁が民間の衛生予防にものすごく苦慮した実態が伺えます。そしていまもむかしも最新の医学を信用せずに、空気を読まない行動が結果としてクラスターを招く点は共通しているんだなと痛感して今回の記事を終えます。