今回は明治政府が何故琉球を日本の版図(主権の及ぶ範囲)と見做したかについて言及します。というのはブログ主が確認した限りですが数多くの琉球・沖縄の通史でこの件について詳細に説明している著書を見つけることができないからです。ちなみにこの案件について詳細に記述しているのが喜舎場朝賢著『琉球見聞録』や松田道之の『第一回奉使琉球始末』ですが、今回松田の史料を利用して当時の明治政府の琉球における立場について説明します。
松田道之の主張
琉球之國タル地勢人種風俗言語及ヒ古來ノ諸史ニ照スニ我日本國ノ版圖タルコト固ヨリ論ヲ待タス中古國主自ラ明ニ通シ後又淸ニ通スルモ當時本邦政權武門ニ歸シ兵馬騒擾ノ際遐方ヲ綏撫スルニ遑アラサルヲ以テ之カ罪ヲ問ハス遂ニ默許ノ體ニ附スル五百年于此矣今ヤ皇政維新萬機親裁百事改良ノ今代ニ至リ苟モ兩屬ノ體ヲ存スルカ如キハ我日本政府ノ體面ニ於テ最モ改メサル可ラサルモノタルヲ以テ(下略)
『琉球所属問題関係資料(第六巻)中』より「第一回奉使琉球始末」からの抜粋。
原文は読みづらい部分がありますので、ブログ主にて読み下し文に直しました。是非ご参照ください。
琉球の国たる地勢、人種、風俗、言語、及び古来の諸史(これは六国史のこと)に照すに、我が日本国の版図たること固より論を待たず。中古(=中世)国主(察度あるいは武寧のこと)自ら明〔国〕に通じ、後(に)清国に通ずるも、当時本邦(日本)(の)政権(は)武門に帰し、兵馬騒擾の際遐方(かほう=遠方地)を綏撫(すいぶ=しずめおさめること)するに遑(いとま=ヒマ)あらざるを以て、これが罪を問わず。遂に黙許(=黙認)の体に附する〔こと〕五百年(于此矣)、今や皇政維新(明治維新のこと)万機親裁百事改良の今代に至り、苟(いやしく)も両属の体を存ずるがごときは我が日本政府の体面に於いて最も改めざるべからざるものたるを以て(下略)
要約すると、
①琉球は地勢、人種、風俗、言語、および六国史などを参照すると、我が日本国(ここでは大和朝廷)の版図であったことは間違いない。
②ただし中世以降、大和朝廷の権威が衰え(平安末期および鎌倉時代以降)、その間隙に琉球の国主(察度あるいは武寧)が明国と冊封を行い、その関係が今日まで続いていること。
③当時の日本は武門(源、足利、徳川などの武家の政治を指す)の時代で国内が安定せず、それ故に遠方地である琉球に対して(勝手に)明国と冊封を行ったことに対して問責することができなかった。
④ただし明治維新以降、往古の天皇親政の状態に戻ったので琉球も以前のように朝廷に恭順すべきである。それゆえに清国との両属関係は認めることができない。
になりましょうか。松田の言い分の是非については今回詳しく言及しませんが、当時の明治政府はこの論拠を基に琉球は日本国の主権の及ぶ範囲と見做して清国との関係断絶を迫ったのです。
窮地に陥った琉球藩
ブログ主が明治政府の論拠を知ったのは、喜舎場朝賢著『琉球見聞録』を読んだ時が初めてです。それまでは通史などで松田の言動や明治政府の主張を参照することはほとんどありませんでした。明治8年(1875年)に松田に同伴して来琉した河原田盛美氏も同じ論法で琉球の為政者たちを説得しています。
『六国史』の時代に琉球は大和朝廷の勢力下にあったと説明を受けても、当時の国王尚泰および三司官など為政者たちは「はぁ~?」ぐらいの感想しか持ち合わせていなかったのかもしれません。そしてこの論拠を基に清国との関係断絶を迫られた王府首脳たちの苦悩は察して余りますが、もはや選択の余地はなく明治政府の言い分の飲まざるを得ない状況に陥ります。
以前、当ブログにて当時の摂政・三司官連名で明治政府に対して誓約書を提出した件を取り上げました(『伊地知貞馨の復命書』)。その誓約書の中に「深く相心得、朝〔廷〕の旨(を)奉戴(し)永年に至り違犯(違反)仕る間敷(まじき)、藩王へも相達しこの段お請け申しそうろうなり。」との記載があり、もしも明治政府からの通達に対して琉球藩が「御請けしない」場合は朝命違反と見なされ、それ相応の処分を受けざるを得なくなります。
琉球藩は”明治政府の通達は受けざるを得ない立場も清国との関係断絶は絶対にしたくない”という極めて複雑な立場に陥ります。残された道は嘆願、嘆願、または嘆願で時間稼ぎをすることだけですが、残念ながらその行為は松田のメンツをつぶしてしまい、そして最終的に明治12年(1879年)の廃藩置県の処分という(琉球藩にとっては)最悪の結末を迎えることになります。
明治政府の論拠を再考すべき
繰り返しますが、今回明治政府の論拠を取り上げた理由は、この件が全くと言っていいほど世間に知られていないからです。明治8年(1875年)以降の琉球処分における日琉交渉において、明治政府の主張を正確に説明できる人はおそらくいないのではないか。もしかして「沖縄は日本である」と主張している勢力もこの件を知らないのではないかとの疑念があります。
『琉球所属問題関係資料(第六巻)』や『琉球見聞録』に記載されている明治政府の論拠は、はっきり言って突っ込みどころ満載ですが、ではなぜこの論理を押し通せたのかを調べることは琉球・沖縄の歴史研究にとって有意義であることは間違いありません。きわめて興味ある分野ですので、今後当ブログにて不定期ではありますがこの案件についての記事掲載を約束して今回の記事を終えます。