日共の対琉要綱 – その4

昭和29年(1954年)8月30日、米国民政府から発表された「日共の対琉要綱」は当時の沖縄社会に衝撃を与えます。そして翌日以降の地元紙(琉球新報、沖縄タイムス)には共産主義の脅威を警戒する旨の社説等を掲載しました。ただしこの指令書とやらはブログ主が思うには実に出来が悪く、本当に日本共産党からの指令か否か判断がつきにくい部分もあります。理由はいやしくも公の政党たるもの中二病を拗らせているとしか思えない人物が書きそうな文章を本気で書くとは思えなかったからです。

実際に沖縄人民党も「これはでっちあげ」と主張していて、正直なところこっちのほうが信憑性あるのかなと考えていたのですが、同年10月19日、米国民政府および琉球政府宛に日本共産党から送られた文書を読んで考えを改めざるを得ませんでした。10月20日付琉球新報の記事から該当の部分を抜粋しますので、是非ご参照ください。

人民党幹部らを即時釈放せよ – 日共が軍民政府に抗議

布令一号違反容疑による瀬長書記長はじめ党幹部の逮捕を境に、前からいわれて来た人民党は共産党か否かの議論が、立法院共産主義政党特別調査委員会でも行われている折から19日、「日本共産党第二回機関紙活動家講習会」から政府あてに瀬長書記長以下28名の人民党員の即時釈放を要求した抗議文が郵送されて来た。

その手紙には普通の茶色封筒に収められ表書は「沖縄那覇市比嘉政府宛」と書かれ裏書は「東京都渋谷区千駄ヶ谷4の714日本共産党第二回機関紙活動家中央委員会」となっているが抗議文の松木には比嘉政府と並べて沖縄アメリカ軍政府宛と書かれている。

政府では宛先に米民政府も加えられているので同日その手がみを民政府に送付した模様である。

日共から送られてきた抗議分の内容全文は次のとおり(原文ママ)

抗議

沖縄人民党瀬長亀次郎初期以下28名の人民党員の不当逮捕に対しアメリカ軍政府並びに比嘉政府に厳重なる抗議を申入れるとともに即時釈放を要求する。さきの地方選挙に際しては人民党候補全員を逮捕し、いま又このような暴挙を敢て行ったことは明らかに祖国復帰を要求し平和を愛する全沖縄人民はもちろん全日本国民に加えた卑劣きわまる弾圧である。沖縄人民の祖国復帰の要求は日本国民として当然の権利の行使でありこれはまたポツダム宣言にも補償されている所であるにも拘らず、この先頭に立ってたたかう沖縄人民党を圧殺せんものと試み同党の非合法化を立法院に要求、特別委員会をつくらせるなどこれまでも同党には数限りない圧迫を加えて来た。これらは、すべて沖縄を完全なる軍事基地と化ししかも侵略の手がかりとして再びアジアを戦火に巻きこまんとする野望をみたす下心に外ならない。これは将にポツダム宣言をふみにじるものであり、日本独立を侵しアジア平和をおびやかすものであることは、あまりにもあきらかである。

しかしながら独立を要求し平和を愛する全日本国民とソ同盟、中国を先頭とする全世界の平和勢力はそのゆるぎなき団結と統一の力により、このような侵略の世野望をことごとく粉砕することであろう。ここにおいてアメリカ軍政府と比嘉政府に抗議するとともに人民党員並びに全政治犯の即時釈放を要求する。

1954年10月10日 日本共産党第二回機関紙活動家中央講習会

沖縄アメリカ軍政府、比嘉政府殿

【参考】畠事件から人民党事件に関する年表(青地は畠義基著『真相はこうだ』からの抜粋)

昭和29年7月15日 米国民政府のオグデン民政副長官は、奄美群島出身の人民党中央執行委員の畠義基と林義巳の両名に対し、「7月17日午後7時までに沖縄から退去せよ」という命令を通告した。
昭和29年7月17日 米国軍事高等裁判所のサードイン判事は、畠と林の両名が指定された日時までに沖縄から退去しなかったことを理由に、両名に対する逮捕状を発令した。
昭和29年7月17日 このとき人民党首脳部(瀬長さん含む)は畠と林の両名に対する退去命令を不服として、党内潜伏を指令。ここから(畠の)潜伏生活がはじまる。
昭和29年7月20~21日ごろ 畠義基、又吉一郎に連れられて豊見城村の上原親子宅に移動。その際瀬長・畠・又吉ら今後について協議をした模様。
昭和29年8月27日 畠義基が豊見城村田頭の人民党宅で逮捕された。
昭和29年8月30日 米国民政府のディフェンダーファー情報敎育部長は、記者会見で「人民党が日本共産党と気脈と通じて行動していることは明らかであり、そのことは、日本共産党の指令とも符合する」と延べ「日共の対琉要綱」を公表した。
昭和29年8月31日 立法院は、琉球民主党提案の「共産主義政党調査特別委員会」の設置案を可決。
昭和29年9月1日 琉球政府は、局長会議で、政府部内に「防共対策委員会」を設置することを決定。
昭和29年9月6日 豊見城村長に人民党公認の又吉一郎候補が当選した。
昭和29年9月15日 米国軍事裁判所は、畠義基容疑者を隠匿した容疑で、又吉一郎豊見城村長に逮捕礼状を発令した(翌16日、逮捕)。
昭和29年10月6日 瀬長亀次郎(人民党書記長、立法院議員)と同党所属の立法院議員大湾喜三郎他23名の人民党員など44名が出入国管理令違反の被容疑者畠義基をかくまったという理由で、犯人隠匿幇助と出入国管理令違反容疑で逮捕された。(人民党事件)
昭和29年10月14日 午前9時半の公判で、畠義基をかくまった上原親子が瀬長氏の関与を証言。(琉球新報から抜粋)
昭和29年10月14日 午後1時公判で畠義基が瀬長氏の関与を証言。その要旨は「旧盆(7月20日)に瀬長氏から”畠をかくまってくれ”と上原親子宅を訪れ、瀬長・畠・又吉らが上原宅で協議した」。(琉球新報から抜粋)
昭和29年10月18日 裁判において瀬長氏の弁論。
昭和29年10月19日 米国民政府および琉球政府あてに、日本共産党から瀬長氏らの即時釈放を要求される書間が届く。
昭和29年10月21日 米国民政府の統一軍事裁判所は、人民党の瀬長亀次郎に懲役2年、又吉一郎に同1年の有罪判決を言い渡し、再審を却下。(犯人隠匿、偽証、偽証教唆)

人民党事件(昭和29年10月6日)については後日説明するとして、上記の年表から当時の瀬長さんが絶体絶命のピンチにあったことが分かります。瀬長さんは畠事件で犯人隠匿、偽証および偽証教唆の疑いで逮捕され、同年10月14日の公判で上原親子および畠本人から「こいつの指示です」との証言から後は有罪判決を待つばかりという”詰んだ”状況、しかも防共法が制定される可能性大のなかで日本共産党から上記の抗議文が琉球政府と米国民政府に送られてきたわけです。

日本共産党としては”よかれ”として抗議声明を出したはずが、実質は瀬長さんおよび人民党に対して“とどめをさす”ことになりました。つまりこの声明文を読んだ住民たち、および政府関係者たちが

「こいつらやっぱりグルだったんだ」

と確信させる役割を果してしまったのです。このあまりのタイミングの悪さはもはや神がかっているとしか言い様がありません。

なおこの声明文で一番目についたのは宛先で、正式名称の琉球列島米国民政府ではなく”沖縄アメリカ軍政府”と記載していることです。これは「日共の対琉要綱」の第2項「(中略)必ず軍政府と呼び決して民政府といわぬようにせよ」と符合します。ほかにも対琉要綱と合致する言い回しや上から目線の調子など、このようにあっさり馬脚を現すあたりブログ主は本気で当時の日本共産党の活動家はおバカの集まりか?と思わざるを得ませんでした。当時の表現を借りるとまさに“左翼小児病”です。

結論を言えば、昭和29年(1954年)8月30日に米国民政府から発表された「日共の対琉要綱」は、状況証拠から日本共産党(実体は中二病患者のシンカ)から沖縄人民党に下されたものと看做しても構わないでしょう。そしてこんな指令書を配布された当時の人民党活動家に心から同情を禁じえません。当時瀬長さんは体調面で問題を抱えていたのですが、もしかして日共から無理ゲーを強いられたことによるストレスが昂じたことが原因だったのかもしれません。(終わり)


【参照】昭和29年(1954年)10月20日 – 琉球新報の記事