日共の対琉要綱 – その3

前回記事において、昭和29年(1954年)8月31日および同年9月1日付琉球新報に掲載された『日共の対琉要綱』の全文を掲載しました。当時の沖縄マスコミにはこの案件に関する社説などの記事が掲載されていましたが、この件に関しては後日改めて当ブログにて史料としてアップします。今回は「日共の対琉要綱」前文を読んだブログ主の感想を掲載します。

この指令書とやらは当時の沖縄の事情にある程度通じた人物によって情報提供がなされた上で作成されたことは間違いありません。たとえば天願事件(昭和28 年4月)や第2回立法院選挙において中選挙区から小選挙区に改正された点などが目につきます。これらの歴史的事実は日本本土においても(マスコミ等の報道などから)調べることができますが、やはり現地からの正確な情報を入手する必要があります。そのため沖縄現地に何等 かの協力者(あるいは情報提供者)が存在して、そして指令書が作成されたことが考えられます。

ただしこの指令書は実にお粗末な内容と言わざるを得ません。たとえば「合法的活動にだけとどめておけ(29項)」と記載しておきながら、「火 災による損害にたいする賠償を主張し火災は君ら〔人民党活動家〕が起すこと(33項-F)」のように矛盾する内容が列記されています。このよ うな初歩的なミスが目立ち、しかも一読では意味が通じにくい文章構成のため、「これはでっちあげである」と人民党側の主張には一定の説得力があります。

米国民政府(USCAR)によって「日共の対琉要綱」が発表された狙いですが、ブログ主は「琉球政府に防共法を制定してほしい」との意向があっ たからと考えています。そのため指令書をでっちあげて、そして防共法の制定に持ち込む陰謀はたしかに「あり」ですが、それにしてはこの「作文」は出来が悪すぎます。でっちあげの文書は「それらしく作成する」のが基本です。本当にでっちあげならば、一読して矛盾が指摘できる文章を作成するほど当時の米民政 府あるいはCIC(米陸軍対敵諜報部隊)はおバカな連中だったのか、そう疑わざるを得ません。

ちなみにもしこの指令書が本当に日本共産党から配布されたのであれば、当時の日共のトップはお粗末極まりない思考しか持ちえなか ったのでしょうか。たとえば、「沖縄人はわれわれ〔日本共産〕党の機関で考案する様なスローガンと同様のものを考え出すことは出来ないのだか らわれわれ〔共産主義者〕が代表として宣伝するのだ。(34項)」のように相手の感情を害する記述があります。指令書全体がとにかく「上から 目線」で書かれていて、マルクス=レーニン主義における「指導」の概念の悪影響極まれりと言わざるを得ません。もしかすると「こんな指令書は 恥ずかしくて表に出したくない」というのが沖縄人民党首脳部の本音だったのかもしれません。

この指令書が本当に日本共産党から配布されたか否かは現在では調べようがありません。昭和29年(1954年)9月29日に立法院で開催された「共産主義政党調査特別委員会」で参考人として出廷した仲宗根源和氏は次のように証言しています。

この委員会(共産主義政党調査特別委員会)が日共指令の出所を確めることは恐らく不可能であると思う。調査のとゞのつまりは日共が指 令を出したかどうかにかかっている事で、日共が出していないと言ったらそれ切りである。従ってこれを徹底することは誰にも出来ないと思う。日共 は自分でだしたものを「はい、出しました」とは云わない。人民党を調査しても同様であろう。人民党は三つの組織から成っている。それは一番奥に秘密化されている純粋の共産党員、その次に党幹部のなかに共産党員候補者があり、幹部のなかには候補者でないものもいる、その次に一般党員となっている、その意味で共産主義者か必ずいる、人民党の実態をつかむことは恐らく不可能だろう、何かのはずみで証拠資料を発見してもそれを否定するのが共産党である。日共の例では自分の筆跡さえも否定する位だから証拠をあげることは難しい。兎角秘密を守るとい うことが共産党員の重大な使命となっている。

実際に当時の人民党は日共指令を否定していますし、おそらく今後も否定しつづけるでしょう。だから仲宗根氏の曰く、「日共が出していないと言ったらそれ切りである」ですが、ブログ主は「日共の対琉要綱」は当時の日本共産党から人民党への指令であると考えています。正確には「現時点で調べた限りでは極めて疑わしい」のですが、その理由は次回のブログにて説明します。