新聞の自由と責任

今月3日から始まったアメリカ大統領選挙は開票作業の遅れから、ネット上ではさまざまな憶測が乱れ飛んでいます。実際に不正が行われているかどうかは不明ですが、ブログ主は一種の “不正感” が憶測書き込みを激増させているように感じています。

ただしこれらの憶測は、不正感だけでなく、既存マスコミに対する不信感が背景にあるとも言えます。ブログ主が見たかぎりでも気の毒になるぐらいトランプ大統領のマイナスイメージを増幅する報道の多いこと、しかも “フェアープレー” の本場であるアメリカでその傾向が強いのはハッキリ言って驚きです。

そんな中、偶然ですが昭和42(1967)年10月20付琉球新報のコラムが目に留まりましたので全文を書き写しました。読者のみなさん、是非ご参照ください。

話の窓

「新聞が育てる未来の人と国」標語を掲げて第20回新聞週間がきょうから幕あけされた。新聞週間は「新聞」にたいする社会の認識を深めるとともに、新聞を作る立ち場にある者が新聞の理想に近づくための反省の機会を得よう – というねらいで昭和23年に設定された。

「自由にして責任ある新聞」の理想のもとに新聞と読者との強い結びつきをめざした「新聞」についての啓発と宣伝の期間である。戦後米占領軍のCIE新聞課の示唆でアメリカの新聞週間に呼応、日本新聞協会加盟150余社が参加して、その機能をフルに活用、全国的な規模で展開されている。

公共の利益を害するか、または法律によって禁ぜられている場合を除き、新聞は報道、評論の完全な自由を有する。禁止令そのものを批判する自由も、その中に含まれる。この自由は実に人類の基本的権利としてあくまでも擁護されなければならない – 。こうした「新聞の自由」=新聞倫理綱領による=を守るため新聞人はどのような手段をとっているだろうか。

日本の新聞は官僚統制のにがにがしい体験がある。かりに新聞が自由を伴う責任なるものをじゅうぶんに果たさないならば読者の不信を買い、官僚統制を招きかねないであろう。こうした点から「報道と評論の責任を良心的に果たし、読者の支持を得ていることが必要だ」といえる。

たとえば①公正な報道②人についての批評は、その人の面前で話し得る限度にとどめる – など、結局は記者の訓練が決定的な対策になろう。正義感、闘志、問題意識を持つためには記者同士でみがきあうことも必要だが、編集だけでなく業務、印刷をはじめ全社が一体となって自由に議論しあう気風が要求される。

ジャーナリズムの仕事は医師、法律家、教授などと同じくプロフェッションに準ずるものと認められるようになってきた。そのために設けられた新聞協会の倫理綱領を根拠に報道の水準と社会的評価を高めることが一つの要件となっている。そこで倫理綱領を厳に守らない限り、プロフェッションとしての社会的信頼は保てない。また新聞の社会的責任の追及が強い昨今、新聞の存立そのものの維持もあやぶまれる。新聞週間を迎え読者とともに自覚を新たにしたい。(汐)(昭和42年10月20付琉球新報夕刊1面)

このコラムでちょっと面白いと思ったのは、”日本の新聞は官僚統制のにがにがしい体験がある” の一節で、じつは官僚統制は全然にがにがしいものではなくて、既存新聞社の経営を格段に安定させたのです。少なくとも沖縄ではそうで、『新聞五十年』(高嶺朝光著)にもそのあたりの事情が明記されています。

ただし、その時代に戻りたくないという決意で、”かりに新聞が自由を伴う責任なるものをじゅうぶんに果たさないならば読者の不信を買い、官僚統制を招きかねないであろう。こうした点から「報道と評論の責任を良心的に果たし、読者の支持を得ていることが必要だ」といえる” との方針で新聞社を経営していこうという姿勢は素晴らしいと思います。

そしてその結果

報道しない自由

を極める事態になるとは、さすがに50年前の新報記者も予測できなかったかもしれません。ちなみにここでの報道しない自由とは、言い換えると “社内の自己検閲” になり、さらに定義すると、

新聞社が設定している読者(あるいはスポンサー)に不都合な記事は一切掲載しない

という極めて営利的な発想ですが、この自己検閲体質が結果として購読者の減少を招いているのです。つまり官僚統制よりもはるかに強力な “自己検閲体質” が記者のレベルおよび記事の質の低下、そして購読者の減少につながっているのです。

“購読者以外の人たちの意見はいちいち聞く必要はない” は既存マスコミの本音で間違いなく、営利企業としては当然の態度ですが、ただしそれは “情報発信を独占” していた時代の発想です。購読者だけを対象にしていたら間違いなく新聞社は生き残れない、そんな厳しい時代にも関わらず、昨今のアメリカ大統領選挙の報道を見ると、既存マスコミの未来に対して絶望的な気分に陥らざるを得ないブログ主であります。(終わり)