今回は、前回の続きで昭和36(1961)年10月1日付琉球新報夕刊のコラムを紹介します。同月1日から始まった “新聞週間” に関する記事ですが、当時の記者たちの気概が伺える質の高い内容と言えます。
果たして現代の後輩たちが先人の遺訓を受け継いでいるかどうかは別にして、参考までに全文を書き写しました。ただし当ブログのお約束で一部を “太字” に編集しましたのでご了承ください。
話の卵
10月の行事は赤い羽根の街頭募金風景からはじまり、われわれジャーナリストに関係の深い新聞週間などが1日から、そして初旬も終りごろから中、下旬にかけて各学校の秋の運動会と、健康の秋にふさわしいいろいろのスポーツ行事がくりひろげられるが、今年は糸満町の合併などもあって10月の話題は豊富である。
きょうからはじまる新聞週間は14回目を数え、今年は日本新聞協会の代表が大挙来島することになっており、沖縄戦の戦没新聞人の慰霊碑の除幕式も行われたが、マス・コミの発達は新聞も大きく伸び、沖縄の新聞界も沖縄タイムスと琉球新報の2社が競争しながら発展しているのはご同慶の至りである。
毎度のことながら新聞に要求されているのは
“自由・責任・公正・気品”
の4つである。この4つが1つでも欠けると新聞の “購読者” は
一転して “哀読者” になり、
曲げられた筆や誤った報道で読者は被害者の立場におかれるので、新聞の仕事にたずさわるものはいつも自戒して、読者を被害者にしない新聞人として努力をしている次第である。
しかし、こうした努力にかかわらず相変らず新聞のミスはなくならない。これに対しては社会の新聞批判とお叱りが新聞人のお灸となり反省する機会も与えられている。時には新聞の公正な批判でなしに自分の犯した誤ちを、いかにも新聞がデッチあげたみたいに怒鳴り込むご仁もいるが、そういうことをくり返しながら沖縄の人たちの新聞に対する理解も高まってきた。
新聞の利用といったら
“弁当箱を包むに便利”
なんていうのは、われわれ新聞人をワビしくさせることばだが、正直なところ最近の読者の新聞利用度は高まっている。琉球新報社の “声” “私の意見” “しんぽう伝言板” “相談室” 一般読者の文芸など、毎日かなりの量の投書があり、公正な大衆伝達機関としての発達は読者の支持が大きい。
戦後、沖縄の新聞界は琉球新報が復刊される前のうるま新報が防空壕に焼け残った機材で出発、16年後の現在では高速輸転機を備えて朝夕刊セット12ページ建てにまで伸びたが、
マス・コミの発達は結局読者あってのことで新聞の独走は許さない。
このためには読者の皆さんは “哀読者” にならないように今後とも新聞を正しく愛し、育てて頂きたい。(蚊)(昭和36年10月1日付琉球新報夕刊1面)