今回は、文久元年(1861年)から始まった文替(もんがわり)に関する史料をチェックしてブログ主なりに纏めてみました。比嘉春潮著『沖縄の歴史』、東恩納寛惇著『尚泰候実録』、および『球陽(附巻四)』から文替に関する記述を抜粋して表作成すると次のようになります。
前にも述べた通り、この政策によって琉球経済は壊滅の憂き目を見ますが、琉球王府としても庶民の生活が破たんするのを見て見ぬふりをしていたわけではありません。民間の経済が危機的であり何らかの対策を取らざるを得ないことは充分に把握していました。それにも関わらず慶応元年(1865年)に清国に対して冊封を要請する辺りが本当に恐ろしいというか何というか、ブログ主はこういう連中が廃藩置県によって歴史の表舞台から消えたことが琉球・沖縄社会にとって最大の救いになったと確信しています。
ここからは球陽附巻四より関連項目を抜粋しました(原文は角川学芸出版発行『球陽原文編』より抜粋)。読み下し文と一部ではありますがブログ主による解説も併記します。読者の皆さん是非ご参照ください。
192. 十四年辛酉始將銅錢一文抵用鐵錢二文 薩州所有小錢逐漸減少通用維難是以上自藏庫下至屬國將銅錢一文扣抵鐵不錢二文一律通用至于本國亦自公項以至世間小錢不裕難以通用由是與薩州同將銅錢一文抵用鐵錢二文
192.(尚泰)14年(=1861年)辛酉(かのととり)始めて銅銭一文を将(ひきい)て鉄銭二文に抵用す。薩州有る所の小銭、漸を逐(お)ひて減少し通用維(い)れ難し。是を以て上は蔵庫より下は属国に至るまで、銅銭一文を将(ひきい)て鉄銭二文に扣抵し一律に通用す。本国(琉球のこと)に至るも亦(また)公項より以て世間に至るまで小銭裕(ゆた)かならず、以て通用し難し。是に由て薩州と同じく銅銭一文を将て鉄銭二文に抵用す。
196. 十六年癸亥因薩州將四文錢一文抵用鐵錢八文將銅錢一文抵用鐵錢四文本國亦如此照行
196.(尚泰)16年(=1863年)癸亥(みずのとい)薩州、四文銭(しもんせん)一文を将(ひきい)て鉄銭八文に抵用し、銅銭一文を将て鉄銭四文に抵用するに因り、本国も亦此(かく)くの如く照行(しょうぎょう=照らし合わせて実施)せしむ。
197. 本年罷退定価司 此年四月初六日銅錢一文抵用鐵錢二文以來除穀項外日用物件共已價貴至今般一文抵用四文則物價愈貴世上人民甚致辛苦是權定物價兼設員役以行檢束尚見未其效至六月二十八日旣停定價之擧仍有員役之設使其禁世上包買之擧但因物價漸賤八月二十七日罷退該定価司
197. 本年(16年)、定価司を罷退す。此の年4月初6日、銅銭一文は鉄銭二文に抵用して以来、穀項を除くの外、日用物件は共に已に価貴(たか)し。今般に至り、一文は四文に抵用すれば、即ち物価愈々(いよいよ)貴く、世上の人民甚だ辛苦を致す。是に由りて、権(はか)りに物価を定め、兼ねて員役(=役員)を設けて以て検束(けんそく=取締りのこと)を行ふも、尚未だ其の效(=効)を見ず。6月28日に至り、既に定価の挙を停むるも、仍、員役の設有りて、其れをして世上包買の挙を禁ぜしむ。但、物価漸く賤(ひくき)きに因り、8月27日、該定価司を罷退す。
*文替わりによる物価騰貴の対応策として、王府側で価格統制を試みたことが記載されています。
203. 十七年甲子二月因薩州將四文錢一文抵用銅錢六文將銅錢一文抵用鐵錢二文本国亦著如此照行
203. (尚泰)17年(=1864年)甲子(きのえね)二月、薩州、四文銭一文を将(ひきい)て銅銭六文に抵用し、銅銭一文を将て鉄銭二文に抵用するに因り、本国(=琉球)も亦此くの如く著(あらわ)し照行せしむ。
204. 本年八月罷退定價司 此年因銅錢一文抵用鐵錢二文乃除穀項外日用物件共已價貴世上人民甚致辛苦時奉上諭朕聞物價太貴臣民共苦宜定賤物價使臣民一統安心欽此欽遵起自四月權定價兼設員役以行檢束奈因人多物疊不能輙行督理由是朝廷確加商議至于八月罷退該定價司
204. 本年(17年)8月、定価司を罷退す。此の年、銅銭一文は鉄銭二文に抵用するに因り、乃(すなわ)ち穀項を除くの外、日用の物件共に已に価貴(たか)し。世上の人民甚だ辛苦を致す。時に上諭(=国王のお言葉)を奉ず、朕聞く、物価太(はなは)だ貴く、臣民共に苦しむと、宜しく物価と定賤し、臣民一統をして安心せしむべし。欽此欽遵(=慎んで遵守するようの意味)と。4月より起して権(はか)りに物価を定め、兼ねて員役を設けて、以て検束(=取締り)を行う。奈(いか)んせん、人多く物畳(かさ)ぬるに因り、輙(すなわ)ち督理を行ふこと能はず。是に由りて、朝廷(=琉球王府のこと)確かに商議を加え、8月に至り、該定価司を罷退す。
*文替わりによる物価騰貴の対応策として、王府側で再度の価格統制を試みたことが記載されています。しかも国王の勅諭という形を取っていますが、それでも効果なく結局この政策は廃止されます。
207. 本年九月因薩州將銅錢一文抵用鐵錢三文本国亦著如此照行
207. 本年(17年)9月、薩州、銅銭一文を将(ひきい)て鉄銭三文に抵用するに因り、本国(=琉球)も亦此くの如く著(あらわ)し照行せしむ。
209. 十八年乙丑二月薩州將銅錢一文抵用鐵錢四文 十八年乙丑二月薩州將銅錢一文抵用鐵錢四文至于六月將銅錢一文抵用鐵錢六文將四文錢一文抵用鐵錢十二文倘本國如此照行則物價騰昂人皆至失所但其抵用異于薩州則有所妨礙由是(闕)朝廷著與薩州一律抵用
209. (尚泰)18年(=1865年)乙丑(きのとうし)2月、薩州、銅銭一文を将て鉄銭四文に抵用す。18年乙丑2月、薩州、銅銭一文を将(ひきい)て鉄銭四文に抵用し、6月に至りて、銅銭一文を将て鉄銭六文に抵用し、四文銭一文を将て鉄銭十二文に抵用す。倘(も)し本国(琉球のこと)も此くの如く照行すれば則ち物価騰昂し、人皆所を失ふに至らん。但、其の抵用、薩州と異ならば、則ち妨礙(=妨害)する所有らん。是に由りて、朝廷(=琉球王府のこと)、薩州と一律に抵用せしむ。
*文替によって琉球経済および庶民生活が破たんすることを把握するも、もしも別レートを採れば薩摩藩の政策の妨げになるため(やむを得なく)同一レートを採用する旨と記載されています。にも関わらず冊封を要請する王府の経済センスには絶句という表現しか思い浮かびません。
220. 本年七月因薩州將銅錢一文抵用鐵錢二十四文將四文錢一文抵用鐵錢四十八文至于九月將銅錢一文抵用鐵錢三十二文將四文錢一文抵用鐵錢六十四文本國亦著如此照行
220. 本年(21年)(=1868年)7月、薩州、銅銭一文を将(ひきい)て鉄銭二十四文に抵用し、四文銭一文を将て鉄銭四十八文に抵用す。9月に至りて銅銭一文を将て鉄銭三十二文に抵用し、四文銭一文を将て鉄銭六十四文に抵用する〔に因り〕、本国(=琉球)も亦此くの如く著(あらわ)し照行せしむ。
*慶応元年のレート(銅銭1:鉄銭6)から最終的には(銅銭1:鉄銭32)まで一気に下落させるまさに鬼畜極まりない所業です。薩摩藩は琉球王府に何か恨みでもあったのでしょうか、はっきり言えば殺しにかかっているとしか思えません。(終わり)