琉球新報社編 – ことばに見る沖縄戦後史

今回は参考までに琉球新報社編『ことばに見る沖縄戦後史』より、戦果に関する記事を紹介します。ブログ主が確認した限りですが、この記述が一番わかりやすい内容となっています。読者のみなさん、ぜひご参照ください。

戦果 – 生きるために不可欠”巨万の富”を築いた人も

沖縄をささえた戦果品 「戦果をあげた」。終戦直後から生活が落ち着き始める52~3年ごろまで、沖縄の社会にはこのことばほど人びとの関心と興味をひいたことばはなかった。

”戦果”とは、戦争当時、大本営が発表していた「帝国海軍機動部隊は、○月○日、××海域で敵空母○隻を撃沈したほか敵飛行機×機を撃墜する大戦果をあげたり」といったたぐいの、”カクカクたる戦果”ではない。生活の糧すべてが、米軍の物資集積所の品物によってまかなわれていた当時、配給品だけでは飢えを、寒さを、住まいを満足にすることはできなかった。人びとは米軍の物資を”失敬する”ことで、不足する配給品のアナを埋めて生きた。「ギブ・ミー」ということばを”表”の生きる姿勢の表現だとすれば「戦果」は”裏”のバイタリティーに富む表現とでもいえそうだ。

当時、人びとが口にした”戦果”には”盗む”というような罪の意識は全くなかった。もちろん”戦果”は盗む行為には違いない。本来、”戦果”は敵をたたいて打撃を与えた成果に使われた。”盗む”という意味での”戦果”ということばにも「敵対国である米国から物資を奪い、敵国の戦闘力を弱める」という考え方が根底にあったようだ。そこでドロボーというような罪悪感はサラサラなかった。そして”戦果”ということばが広く社会で通用するようになってくると、本来の「敵の戦力を弱める」という内容もうすれ、ただ”ぶん取ってくる”ということだけに使われ、罪悪感がともなわないものになった。「戦果をあげた」といえば「うまいことをしたなア」という程度に使われ、沖縄住民の所有している物を”盗む”ということのほかに、米軍から「譲り受ける」場合にも使われるようになった。

ところが、この”戦果”が、当時の沖縄の生活の”ささえ”となったのだから、すさまじい。くわしくいえば、当時の生活は、米軍からの配給をはじめ地方での農家のわずかな生産、ギブ・ミーといって米軍から分けてもらうささやかな品、そして”戦果”の四つによってささえられてた。なかでも”戦果”が、やはり大きな比重を占め、当時を生き抜いた人たちは「戦果品が沖縄をささえたといっても過言ではない」と”戦果”の重要な意義を認める。

戦後「敗戦利得者」ということばも多く聞かれたが、その「利得者」とは、まさしく、この”戦果”によって、巨大な富を築いた人たちだった。いま沖縄で巨大な富を持っている資産家の多くが、この戦後の特異な時期に莫大な”戦果”をあげたほか、”戦果”となんらかのつながりを持つ人たちであったことは、だれもが認めるところだ。

涙の戦果秘話 ”戦果”の対象になる物資は、米軍の物資集積所に置いてある物資のすべてだった。小は鉛筆、消しゴムから大はブルドーザー、モーター、トラックまで、それこそピンからキリまでの物資だった。その後、米軍は物資集積所を野積みから屋根つきの建て物へと替え、配給のための倉庫も造った。

配給倉庫は、中部の天願に巨大な中央倉庫を置き、糸満、知念、前原、石川、コザ、金武、田井等の七カ所に地区倉庫を配置した。米軍は沖縄への配給物資をホワイト・ビーチ、金武湾ビーチなどへ陸揚げし、そこからトラックで天願の食糧倉庫と衣料雑貨を入れるSPDC倉庫に運んだ。那覇地区が開放される四八年ころまで天願が当時の物資集積の”心臓”になっていたから、ホワイト・ビーチから天願へ通ずる道路は、昼夜の別なく物資を山積みしたトラックが次から次へと絶え間なく砂塵をあげて通った。

「戦果をあげる」のは、この船からの陸揚げ場所、天願の倉庫やそこから各地区の倉庫へ運ぶ途中、各倉庫、各米軍部隊などの場所だった。そのうちで最も”戦果”のあげやすいところは、輸送中のトラックだった。船からトラックに積む際、チェッカーの目をごまかして一箱とか二箱とか多く積み込み、輸送途中、あらかじめ定めてあったところに仲間を待機させ、積んだ荷物を車から放って、そのまま倉庫に運び込んでしまうなどの”方法”が多くとられた。なかには、トラックごと”蒸発”してしまうような大がかりな”戦果”もあったという。

また、作業中に野積みされている物資を金網の外のミゾにころがしておき、ガードに金を握らせ「戦果をあげる」のに協力させ、夜中に取りにゆくなどの手が使われた。天願の倉庫の場合は、物資を積んである金網の外側がすぐに”谷間”になっていたので、この谷間に昼のうちに”戦果品”を隠しておき、夜陰にまぎれて拾いに行くケースが多かったようだ。だが、こうしたやり方は、よほど大胆な人でなければできない。

軍作業に行っていた人たちの多くは、たとえば、たばこを一カートンくらい”失敬”して持ち帰るとか、HBTの上着やズボンをからだに巻きつけたり靴下のなかに豆電球や電池など数個隠して、ガードの目をごまかした。こうしたささやかな”戦果”だった。

だが、一九四六年四月二十日、南西諸島米国海軍軍政本部の出した「沖縄公共、個人事業雇用の日給月給等級表」によると、学校の教師が月給二百円、村長や警察署長が四百円、知事が一千円。タバコ一カートンは、ヤミで二百円したから、タバコ一カートンの”戦果”が、いかに値うちのあったものかがわかる。そこで、住民は”ウの目、タカの目”でせっせと”戦果”をあげるのに努めた。なかには内またに、小さな電池をいっぱい巻きつけ、ガードの身体検査をうまく突破するのに成功したものの、見破られまいとムリしてシャンとした姿勢で歩いたため、”またずれ”がして、治療に苦労したという”涙の戦果”もあったようだ。

”戦果”の最たるものには次のようなデッカイ規模のケースもあった。天願の衣料雑貨の倉庫となっている通称「SPDC」(当時の倉庫長などに聞いてもなんの略号なのか、当の管理者である米軍も知らなかったという)に、ガードをしていた沖縄青年は、トラック七台を倉庫に入れて衣類を積み出してやった。もちろん計画的な”犯行”で、「地区倉庫へ転送」という公文書を偽造、ガードの職責を利用してトラックをだし入れしたわけだ。

この青年、トラック七台の衣服を数ヵ所に分散、「台湾あたりへ売りさばこう」と船を捜しているうちに、パクられてしまった。その後、刑務所を脱走して本土へ高飛びしてしまったという。「あれだけの衣服を、もしうまく売りさばいておけば文字どおり、”カクカクたる戦果”で、いまごろは沖縄で屈指の資産家になっていたはずだが、運の悪いやつだヨ、まったく。いま本土にいるはずだが」と、当時、SPDCに勤めていた人の話。西部劇の列車乗っ取りのようなギャングもどきの「現金輸送車強奪」もあったそうだ。

稼ぎがしらの運転手、ガード ”戦果”をあげることが、生活をささえるばかりでなく”富”を築くもとにもなったのだから、人びとは”戦果”をあげるのに血まなこになった。大”戦果”をあげることができた人は、英雄のように見られた。人びとは競って”戦果”のあげやすい、しかも、高価な物資のおかれてある職場を捜した。月給二百円と毎日米二合ぐらいしかもらえないような学校教師の生活はみじめだった。そこで教師をやめて軍作業へ行く人もかなりいた。

宮古、八重山からも”戦果”をめざして本島に”密航”した人も多い。当時、トラックの運転手、ガードなど米軍の作業員になることを、みんながねらうので就職の”狭き門”だった。

運転手は、物資の輸送中に”戦果”をあげることができたし、トラックの荷台を二重底にして、そこに”戦果”品をかくしたり、ガソリンタンクからいつでもガソリンを抜き取ったり、ガソリンタンクに缶ビールを幾ケースも詰めて持ち帰るなどした。

またガードは、いつでも”戦果のガイド役”になれるからだ。初めのうちはガードに米兵とフィリピン人があたっていた。だが一年ぐらいするとつぎつぎ沖縄人もガードになれた。米兵とフィリピン人のガードがいた初期のころは物資集積所にしのび込んで銃で撃ち殺された不幸な人たちもいた。沖縄人ガードになってからは、殺されるようなケースは起こらなかったという。フィリピン人ガードの場合などは、おスソ分けにあずかるため、戦果襲撃にかなり協力的だったようだ。

”戦果品”は、ブローカーの手にわたり、ヤミ商品は集められて消費者に流された。あるいは密航船で”国境の町”与那国島へと運ばれ、台湾や香港へ密売された。(1970年1月)