以前、当ブログにて「選挙における候補者選びについて真面目に考えて見たところ」という記事を3回ほど掲載しました。その後、山本七平著『論語の読み方』という本を再読した際に、実に興味ある箇所を見つけましたので全文を抜粋します。読者の皆さんぜひご参照ください。
戦後民主主義につきまといつづけた重大な誤解
「孔子が言った。昔の人たちが身につけた教養は、田舎流であった。今の人たちの教養は、すっかり『賢士大夫』(朱子)になっている。どっちの教養が本物かといえば、昔の人たちのほうだ」
「子曰く、先進の礼楽におけるや、野人なり。後進の礼楽におけるや、君子なり。如しこれを用うるには、吾れは先進に従わん」(先進第十一255)
この言葉のとおりなら、一農民、一野人の教養のほうが「戦後的賢士大夫」のそれより、はるかに本物であろう。今では、自分がいかなる規範に従い、社会にどのような共通の規範があるのかわからなくなっているから自分の子どもを叱るにも、何が「親子を共に律する規範」で、何が社会一般に共通している規範なのかわからなくなっている。そのため渋沢(栄一)の父親のような態度がとれる人間は、きわめて稀になってしまった。それでいて「親子の断絶」を嘆いてもはじまらない。
「……どっちの教養が本物かといえば、昔の人たちのほうだ」- たしかにそういう家庭なら、子供が金属バットで親を撲殺したり、娘が、新婚旅行の途次に、他の男との間の嬰児の殺害死体を棄てたりするようなことは起こすまい。
戦後民主主義には、一つの誤解がつきまとっている。民主制とはあくまでも政治的制度で、この制度は人間に絶対的規範(グルント・ノーム)を与えてはくれない。思想・信条・宗教の自由を保障するとは、言葉を換えれば、「この制度はそれにはノータッチです。各人の規範は各人でご随意に……」ということなのである。同時に、その自由を保障するとは、各人が何らかの思想・信条・宗教に基づく絶対的規範を持っていることを前提とし、法は「すでに起こってしまった人間の行為」にしかタッチしないということである。
もちろん行為にしかタッチしないとは、その行為を行ってしまってからはじめて作用するわけであり、行為が起こる以前には何もできないということ。いわば両親を撲殺した後で、嬰児を殺害した後で、しかも、それが発覚してはじめて作用するのであって、それ以前にはまったく無力だということである。
ということは、それ以前にその行為を起こさせないものは、各人の持つ内的規範しかないわけだから、それを否定し、罵倒し、その結果、それが喪失し、各人が完全な無規範になったら、その社会は救いがたい状態となって不思議ではない。(山本七平著『論語の読み方 – いま活かすべき この人間知の宝庫』昭和56年刊行、27~28㌻からの抜粋)
この文章に関しては改めての説明は不要かと思いますが、民主制はあくまで政治制度であって個人に規範を与えるものではないことを明示しています。絶対的規範(グルント・ノーム)は言い換えると「何が正しい、正しくないかの判断基準」で、その規範はたいてい親→子と継承されます。現代社会は絶対的規範の親子継承があいまいになっている状態ですので、その際に親代わりの人から判断基準を授かるケースもあります。
山本七平氏のこの文章は、「現代社会において(有権者は)政治家に絶対的規範を求めてはいけない」ことも暗示しています。「思想・信条・宗教の自由を保障するとは、言葉を換えれば、『この制度はそれにはノータッチです、各人の規範は各人でご随意に……』ということなのである。」と記載されていて、そうなると広範囲な自由が保障されている現代社会において政治家が提示するものは「政策」であり、それ以上それ以下でもありません。
ハッキリ言えば、民主主義と自由主義を採用している社会において、政治家は正義の体現者であってはならない、カリスマの担い手としてふるまってはいけないのです。我が沖縄における翁長雄志知事の不幸は、ご本人の意思の有無にかかわらず支持者(あるいは支持団体)から”正義の体現者”のように振舞うことを要求されている点に尽きます。だから彼は闘病に専念できない、少なくとも任期中はリタイアすることができない極めて厳しい状態に立たされているのです。
翁長知事のような不幸な政治家を今後は出してはいけない、ブログ主はそう確信しています。それはすなわち、支持者および支持団体が政治家に”正義の体現者”として振舞うよう要求している場合、その政治家に投票してはいけないことを意味します。この点は今年秋に予定されている沖縄県知事選挙における候補者選びの判断材料のひとつとしてご検討いただくと大変ありがたいとおもいつつ、今回の記事を終えます。
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