戦前の沖縄社会になぜ反社会的勢力が存在しなかったの考察 – プロローグ

今回から数回にわたって古琉球から戦前の琉球・沖縄社会にヤクザが存在しなかったかをまじめに考察します。ご存じのとおり、琉球・沖縄の歴史において反社会的勢力が階級を作り上げたのは昭和20年(1945)以降で、それ以前の社会ではヤクザが存在する余地はありませんでした。沖縄社会にヤクザが存在しなかったことに関して、以前当ブログでも取り上げましたが、宮城嗣吉(みやぎ・しきち)さんの証言を再掲載しますのでご参照ください。

神戸、門司、福岡、鹿児島、台湾から野師(やし)が大挙沖縄へ進出してきたのは、昭和6年から昭和8年にかけてであった。このような組織は沖縄にはない。われわれも当初は面食らった。仕事は、波上(なみのうえ)から上之蔵(うえのくら)、山形屋前(現在の那覇市東町にあった)と目抜き通りを占拠し、たたき売り、屋台を出した。(下略)

参考までに宮城嗣吉さんの経歴を紹介すると、戦前はスヤーサブローの異名で知られた空手の達人で、辻町界隈でカキヱー(掛け合い、いわゆる喧嘩のこと)にあけくれ、戦後は空手繋がりで、又吉世喜(那覇派)や冝保俊夫(東声会沖縄支部長)と懇意な関係にありました。つまり限りなく黒に近いグレーな人物であり、その彼が「戦前には野師のような組織はなかった」と明言しているのです。

宮城さんの発言で、もうひとつ注目すべきは、昭和6年(1931)から8年(1933)あたりに本土から野師たちが大挙来島したと述べている点です。

つまり当時の沖縄に野師のような勢力をかかえるだけの経済力があったことを示唆しているのです。

ためしに、太田朝敷著『沖縄県政五十年』から沖縄の移出入(円)の統計をチェックすると、明治8年(1875)当時は移出が34万円、移入が25万円程度(超過は約9万円の黒字)の琉球経済が、昭和3年(1928)にはなんと移出が1800万円、移入が2900万円(超過は約1000万円の赤字)となり、明治12年(1879)の廃藩置県(琉球処分)前に比べると、沖縄県人の購買力が信じられないほど激増しているのです。

昭和に入ると、我が沖縄も不況の影響をもろに受けますが、それでも沖縄県人たちの購買力は落ちていないのです。『沖縄県政五十年』に掲載されている経済統計を見ても、本土から野師勢力が沖縄にやってくるのも納得で、つまり当時の沖縄社会は彼らのような “ヤクザもの” を養うだけの経済力を有していたのです。

にもかかわらず、沖縄県内から(本土の野師に対抗すべく)何らかの組織を作ろうとする動きはついに起こりませんでした。アメリカ世時代に山口組などの本土組織の進出を拒むために “沖縄連合旭琉会” が形成された事例と比較しても極めて異質に思わざるを得ません。

しかも、従来の沖縄ヤクザ関連の書籍は例外なくこの重大な事実を見落としているのです。ではなぜ戦前の沖縄社会に反社会的勢力が存在しえなかったのか。

 ズバリその理由は、

1 社会に結社の概念がなかったこと

2 現在と違い、都市の機能が貧弱だったこと

3 権力者たちの手が及ばない、いわば “聖域” がなかったこと

の3つに集約できます。意外に思われるかもしれませんが、当ブログ運営を開始して5年以上経過し、その間数多の史料を閲覧したブログ主はこのように結論づけざるを得なかったのです。次回から数回にかけてその理由について説明します。