戦前の沖縄社会にヤクザはいなかった件についての考察

“戦前の沖縄にはやくざがいなかった”

ブログ主が初めてこの事実に気が付いたのは大城立裕著『沖縄歴史散歩』を読んだときですが、その後いろいろな史料に目を通すうちに、意外なところから上記の事実を裏付ける記述を見つけました。

余談ですが、人間関係の揉め事は「酒、女、カネ」が相場と決まっていますが、そこが反社会的勢力のつけ入るスキになっています。特にカネ(利権)の部分にヤクザが群がってくるのは世界共通です。その点を踏まえた上で明治36年(1903)4月27日付琉球新報2面記事をご参照ください。

本縣典獄三井久〇、警視橋口軍六の両氏が東上の途次神戸に〇〇語れ〇談なりとて去二十日の神戸新聞の報ずる所左の如し(中略)犯罪者の多くは窃盗罪〔に〕して賭博犯は十年間僅に十人過ぎず然れども内地に於ける頼母子講類は全島到る處に流行するに拘らず未だ其詐害行爲に出でたるものありしを聞かず(下略)

この記事は明治36年4月に大問題になった人類館事件に関して、本県典獄(沖縄刑務所の事務員)が神戸に立ち寄った際、現地の新聞に沖縄の近況について言及した内容ですが、ブログ主が注目したのは「犯罪者の多くは窃盗罪〔に〕して賭博犯は十年間僅に十人過ぎず」の部分です。

ヤクザや半グレなどのアンダーグラウンドの世界と賭博は切っても切れない関係です。この記述は当時の沖縄社会に賭博文化がなかったことを暗示しており、そして賭場を運営する団体(反社会的勢力など)が存在しなかったことの傍証として極めて重要です。そして宮城嗣吉さんの証言を裏付ける内容に気が付いてブログ主はびっくりしました。宮城さんの証言は下記参照ください。

神戸、門司、福岡、鹿児島、台湾から野師(やし)が大挙沖縄へ進出してきたのは、昭和六年から昭和八年にかけてであった。このような組織は沖縄にはない。われわれも当初は面食らった。仕事は、波上(なみのうえ)から上之蔵(うえのくら)、山形屋前(現在の那覇市東町にあった)と目抜き通りを占拠し、たたき売り、屋台を出した。(下略)

引用元:『私の戦後史第5集』324㌻より抜粋

アメリカ世時代の闇社会は、カンパン(沖縄戦後に各地に設置された収容所兼労務宿舎)の雇用員たちが軍物資を横流しするために組織化したのか始まりです。そしてならず者たちの中から頭角を現したのが喜舎場朝信(とある善良な市民がマスコミデビューしたときの記事を見つけた件を参照)であり、彼は戦果アギャーで稼いだお金で “ビンゴハウス” を経営し、資産を増やすことに成功します。

つまり戦後沖縄のアンダーグラウンド社会も賭博と密接不可分の関係であり、第二次沖縄抗争、第三次沖縄抗争も賭博利権のもつれが抗争のきっかけです。この事実を踏まえてみると、戦前社会に賭博犯がほとんど検挙されなかったとの証言が如何に異質かお分かりいただけるはずです。

最後に余談ですが、当時の沖縄社会にはそれなりの経済力はありました。つまり地方社会では “模合” が盛んに行われており、上記引用でもその点について言及しています。ただし模合の問題点はカネが狭い範囲内にしか循環しないことであり、沖縄県の経済全体にはあまり貢献しないのです。

そして模合の一番の問題点は崩れた時の恐ろしさです。“模合崩れ” は構成員たちの人間関係のみならず、地域共同体の崩壊にもつながりかねない危険な行為です。その点を理解した上で、「然れども内地に於ける頼母子講類は全島到る處に流行するに拘らず未だ其詐害行爲に出でたるものありしを聞かず」の意味するところを読み解くと、

模合崩れは闇に葬られているんだよ

で間違いなく、そして当時の沖縄社会の恐ろしさを実感したブログ主であります。