先日ブログ主は翁長雄志著 『戦う民意』 を読んでいて面白いことに気がつきました。この著作、ところどころに歴史的に重要な証言があり、その点は後日改めて掲載することにして、翁長知事が政治家になった動機が実に興味深い。早速ですが以下の記述をご参照ください(おまえだけは政治家になるんじゃない – 163~165㌻からの抜粋)
父が選挙で負けた小学校六年のときでした、選挙事務所だった自宅は重く沈んだ空気に浸されていました。私は母の和子が選挙のチラシなどを片付けているのを近くでぼんやり眺めていました。すると母は突然、私を抱きよせて、
「おまえだけは政治家になるんじゃないよ」
と絞り出すように言いました。それから一時間近く、母は涙を流しながら私に沖縄で政治をすることの厳しさ、つらさを語り続けました。父が当選と落選を重ねる中、母は那覇市内の小さな市場に構えた一坪ほどの店で蒲鉾や沖縄そば、漬物を売って家計を支えていました。母はとても気丈で、何事にもくじけない人でしたが、父と兄の選挙で苦労に次ぐ苦労を味わっていたのです。
母に抱きしめられたまま、私はその時、「自分は絶対、政治家になる」と心に決めました。そのときの気持ちはうまく説明できません。苦労を重ねた母の「息子に政治をさせたくない」という思いは、そばで見てきた自分にもよくわかる。一方で父から受け継いだ血が自分の中にも流れている。でも苦労した母を喜ばせるにはどうすればいいのか分からない。子ども心にリベンジするような気持ちもあったのかもしれません。(中略)
子どものころから沖縄のいびつな社会構造や県民の思いに肌で接してきたため、政治の力で県民の心を一つにしたい、一つの政治勢力として定着させたい、という気持ちは他の誰よりも強かったと思います。白黒闘争をうちなーんちゅの誇りで乗り越えなければという思いは、一度もぶれずに心の中にありました。
捕捉として翁長知事の父は、旧真和志村長(あるいは市長)そして立法院議員を務めた翁長助静氏で保守系の政治家です。兄の助裕氏も保守系で、西銘順治県知事時代には副知事を務めています。そんな保守系の家庭で生まれ育った現知事がどうして旧革新勢力と手を組んで「オールおきなわ」という政治勢力を結集したかが良く分かる記述です。
だがしかし、「政治の力で県民の心を一つにしたい」という翁長氏の想いには致命的な弱点があります。それは一つにするための前提、つまり「共有される価値観」が翁長氏の世代なら通用するのですが、それより下(特に平成以降に生まれた世代)はその価値観を受け付けてくれないのです。具体的には、「沖縄県民は第二次世界大戦における敗戦国民である」という認識が世代を超えて共有しないとダメなのです。
「沖縄は差別されている」という感情も、現代の米軍基地問題も、つまるところ大東亜戦争における敗戦の産物です。そしてアメリカ世の始まりも、その結果による保守と革新の対立も、すべては敗戦という事実からのスタートなのです。その点を肌で感じている世代なら翁長知事の主張が理解できます。ただし復帰後の生まれた世代、そして平成以降に生まれた世代にはその点が全く理解できない。理由はただ一つ、彼らが「我々は冷戦の勝者であって、沖縄は米軍に基地を提供することで冷戦の勝利に貢献した」と思っているからです。
翁長知事の想いは「ヨコ(つまり同世代)」には伝わる、ただし「タテ(復帰、あるいは平成世代)」には伝わりにくい。その点をカバーできない上に、同世代の高齢化という物理的な難題が現在の翁長知事を苦しめているのです。その象徴が先の名護市長選挙の敗北です。どうみてもジリ貧の「オール沖縄」の政治勢力ですが、実は旧革新勢力が(社会的に)壊滅して初めて我が沖縄県は「冷戦の戦勝国民である」という認識が社会に定着することになります。そうなれば彼にとっては不本意ながら「県民の心を一つにした政治家」として翁長雄志の名前は沖縄の歴史に名を残すことになること間違いありません。(終わり)