我が沖縄社会の犯罪統計を調べてみた結果

これまで当運営ブログにて沖縄ヤクザ関連の記事を28回掲載してきました。その理由のひとつに「琉球王国および大日本帝国時代の沖縄県でなぜヤクザが誕生しなかったのか」を追及するためでもあります。

実は”我が沖縄社会においてヤクザが誕生するチャンスはアメリカ世の1945~1965年の20年だけである”ことが分かっています。この点の詳細は後述するとして、今回は琉球警察の犯罪統計を参照に、当時の琉球社会においてアシバーたちの組織が必要不可欠であったことの傍証を紹介しますので読者のみなさん是非ご参照ください。

下表はブログ主が作成した昭和25年から46年までの犯罪統計です。

刑法犯罪別発生件数は凶悪犯、窃盗、粗暴犯、知能、風俗、その他および過失犯の総計です。犯罪統計は沖縄県警察史第3巻と沖縄県警のホームページを、人口は沖縄県のWEBサイトからエクセルファイルをダウンロードして集計しました。

特に注目は、昭和28年(1953)と29年(1954)、および昭和37年(1962)から39年(1964)年の5年間の犯罪発生率の急上昇と、昭和28年から昭和31年(1961)の検挙率の低下です。その最大の理由は人口増に対して警察官の絶対数が不足していたことです。ブログ主は昭和40年(1965)年の9月に琉球警察が記者会見をして200人ほど人員が不足している旨の記事を読んだことがあります。

昭和25年前後の新聞を参照して印象的なのは “自警団” が組織されている記事が散見されることです。この事実は人口の急増に対して治安が悪くなったことの傍証とみて間違いありません。昭和28年(1953)あたりから凶悪犯罪の記事が社会を賑わすようになりますが、ブログ主が作成した犯罪統計を見てもなるほどと納得せざるを得ません。

極めて興味深いのが、昭和38年(1963)の犯罪発生率の急上昇です。実は前年の12月に琉球警察が喜舎場朝信中心のコザ派と又吉世喜中心の那覇派のアジトを一斉捜索してアシバーたちの組織に大打撃を与えています。その結果38年の犯罪件数および発生率が急上昇している事実は、当時のアシバーたちがなんらかの形で街の治安維持に貢献していたことを伺わせます。

昭和42年(1967)および43年(1968)の検挙率が前年度比で大きく低下しているのは、教公2法阻止闘争(昭和42年2月24日)の結果、大量の警察官の退職者が出たことと無関係ではありません。沖縄ヤクザ史上でもっとも多くの検挙者を出した第3次抗争もこの時期に発生しています。

アメリカ世時代の犯罪発生率は単純計算で約1.5パーセント、平成30年の0.49パーセントの三倍です。昭和38年には2パーセント超えというすさまじい状況であって、官だけではどうにも手に負えなかったのは容易に想像できます。そこにヤクザ組織が成育する土壌があり、そして昭和45年(1970)12月に沖縄連合旭琉会が誕生することになります。我が沖縄にヤクザが誕生する原因はもちろんそれだけではありませんが、

社会が彼らを必要としていた時期があった

のは疑いの余地がないと明記して今回の記事を終えます。

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