今回はちょっと真面目に我が沖縄県の学力低下の原因を歴史的に考察します。正直なところ現在のブログ主のレベルでは手にあまるテーマではありますが、歴史的にさかのぼって考察すると面白い仮説ができあがりましたので、この場を借りて紹介します。拙文ではありますが読者の皆さん是非ご参照ください。
その前に琉球藩時代の士族における学問の目的について言及します。明治8年(1875年)に来琉した河原田盛美(かわらだ・もりはる)氏の『琉球紀行』より、那覇士族の実態について言及している箇所を抜粋します。
学問は士官するためだけに行うもの
琉地那覇港ノ士族ト称スルモノヽ勤務ハ物城砂糖奉行同大屋子筆者仕上座親見世勤先島在番渡唐脇筆者等僅々ノ勤メタルモ数百ノ士族数年ノ勤功ニ依テ – 真ノ功ニ非ズ月ヲ経ルノミ – 被命モノニシテ所謂勤功ト称スルは御仮屋守用頼及内地在勤官員ニ隷属スルノ微労ナリ然ルニ自今一切被廃親見世モ自然用向減少スヘク渡唐モ廃サレ先島在勤モ首里久米ノ人ヲ以任セラレハ一纑心氣沮喪スベシ少児輩學校ニ於テ讀書習字等ヲ勵ムモ皆此志願或ルニ基ヒセリ依テ即今那覇ノ士族ハ甚惰ニ赴ケリト予ニ嘆息陳情セルヲ以テ予之ヲ説諭シテ曰ク(下略)
引用:国立国会図書館デジタルコレクション – 河原田盛美著『琉球紀行』44㌻より抜粋
読み下し文は下記参照ください。
琉〔球の〕地、那覇港の士族と称するものの、勤務は物城、砂糖奉行、同大屋子(ウフヤク)筆者(ヒッシャ)、仕上座、親見世(の)勤(め)、先島在番、渡唐(の)脇筆者など僅々の勤めたるも、数百人の士族、数年の勤功に依て – 真の功にあらず、月を経るのみ – 命じられるものにして、所謂勤功と称するは御仮屋守用頼及び内地在勤官員に隷属するの微労なり。
然るに自今一切廃され、親見世も自然用向(ようむき)減少すべく渡唐も廃され、先島在勤も首里久米の人を以て任ぜられば、一纑心氣沮喪すべし。少児輩学校において読書習字などを励むも皆この志願あるに基ひせり。依て即今(そっこん)(の)那覇の士族は甚だ〔怠〕惰に赴けりと予に嘆息陳情せるを以て、予これを説諭して曰く(下略)
*補足:当時の学問は漢学(四書・五経)および書道が中心です。
(説明不要とは思いますが)太字部分を要約すると、「幼いころから小学校などで学問をするのは士官するためであり、(琉球藩の時代になって士官先が減少したことにより)昨今の那覇士族たちの学習意欲が激減し、私(河原田盛美)に嘆息陳情するありさまであって」になりましょうか。この一文だけでも当時の那覇士族たちの学問に対する態度が伺えて実に興味深いです。つまり儒教本来の「己を修めて人を治める(修己治人)」の目的は顧みられず、ただ士官するためだけに勉学に励んでいたわけです。
ちなみにめでたく士官した場合には、これまで学んできた孔孟の教えは全く顧みなくなります。学問の目的が「士官する」ことにありますので、目的を達成したら手段は捨てられてしまいます。当然といえば当然ですがその結果どうなるか、ためしに孟子からの引用をご参照ください。
既に人爵を得て其の天爵を棄つるは、即ち惑へるの甚しき者なり
孟子曰く、天爵なる者あり、人爵なる者あり。仁義忠信、善を楽しみて倦まざるは、此れ天爵なり、公卿大夫は、此れ人爵なり。古の人は、其の天爵を脩めて、人爵之に従えり。今の人は、其の天爵を脩めて、以て人爵を要む。既に人爵を得て其の天爵を棄つるは、即ち惑へるの甚しき者なり、終には亦必ず亡びわんのみ。(告子章句上16)
孟子がいわれた。「この世には天爵(てんしゃく)というものがあり、人爵(じんしゃく)というものがある。仁・義・忠・信の四徳や善を行うことを楽しんで倦まない実践力は、(人が爵位を与えなくても、しぜんに人から尊敬されるから)これがつまり天の爵位すなわち天爵というものである。公や卿(けい)や大夫(だいふ)などという位階は、人から与えられる爵位だから、人爵というものである。昔の人は自分に与えられた天爵をよく修めて〔有徳の君子となり〕、その結果人爵がそれに伴ってついてきたのである。ところが、今の人たちは人爵にありつくと、天爵の方はもはや捨ててかえりみない。実に考えちがえも甚だしい。そんな心がけでは、しまいには折角手に入れた人爵までもきっと失ってしまうに違いない」。
引用:小林勝人訳注『孟子(下)』(岩波書店)
上記の引用は約2000年後の琉球社会を予言しているかのようですが、当時の無禄士族たちがまさに「今の人たちは人爵にありつくと、天爵の方はもはや捨ててかえりみない。実に考えちがえも甚だしい。」です。士官が目的で勉強すれば当然このような態度になってしまいますし、そうなると儒教の主要テーマである仁・義・礼・智は全く顧みることなく、ただひたすら業務に徹する日々を過ごすことになります。残念なことにブログ主は仁・義・礼・智を日々の業務に生かした琉球官吏の話を聞いたことがありません。
おもしろいことに当時の琉球社会には「有教無類」という発想が全くといっていいほど見当たりません。四書五経が士官(就職活動)を目的として学ばれた影響もあるでしょうし、当時の階層社会において学問人口が非常に少なかったことも原因かもしれません。だがしかし同時期の日本においては、「人は教育によって善とも悪ともなるのであって、人間の種類に善・悪があるわけではない」という発想が広く浸透していたことと比べるときわめて興味深いものがあります。
江戸時代の日本も琉球王国も身分社会であって、学問は朱子学(四書五経)が中心です。にも関わらず琉球社会において「有教無類」の概念が浸透しなかった決定的な理由は不明ですが、実はこの点が現代沖縄の学力低下の一因になっているのです。明治になると「立身出世」という概念が一世を風靡しますが、その根底には有教無類の発想があります。我が沖縄にも廃藩置県後に身分制を解体し、教育制度を導入することで立身出世の概念がもたらされますが、その根本である有教無類の概念に欠けるために琉球藩時代の士族の学習態度を無意識のまま継承することになってしまったのです。
有教無類の精神を浸透させることが肝要
現代人の学習態度は明治時代の立身出世主義をそのまま継承しています。その根本には有教無類の精神があり、このことが日本の近代化に大きく寄与したとこは疑いの余地がありません。河原田盛美氏は『琉球紀行』において「国の興廃汚隆は人民の精神奈何にあり。人民の精神活発旺盛にしてその国振興せざるものは未だかつてあらざるなり」と喝破していますが、そのためには「宜しく時勢を察し万国の史書地理を読み心を地球上の大勢に留めて志業を立たんことを希望する所なり」と述べています。この発言はその根底に有教無類の精神がないと出てこない内容です。
ところが我が沖縄社会においては、「人は教育によって善くも悪くもなる」という観念は必ずしも社会全体に浸透しているとは思えないのです。立身出世の観念は充分浸透しているのですが、その根本があやふやでは学習効率が上がるわけありません。そうなると沖縄県民はかつての琉球士族のように一流大学に入学し社会に出るとそれまで学習したことを忘れ、なにより生涯にわたって学習する意欲がなくなります。その悪循環に苦しんでいるのが沖縄社会の現実ではないでしょうか。
これに由りて之を観るに、単に教師のレベルを上げること、すなわち学習スキルの向上だけでは沖縄社会の学力アップは厳しいことが予想されます。社会全体の学力アップのためには、なぜ教育は必要なのか、つまり有教無類の精神を徹底させる必要があります。一見遠回りに見えますが、根本なき立身出世主義の弊害に苦しむ我が沖縄社会にとっては最良の道ではないかとブログ主は確信せざるを得ないのです。(終わり)