すでに当ブログに取り上げた案件ですが、伊波普猷先生の『古琉球』の論説 – 沖縄人の最大欠点 – についてブログ主が調子に乗って言及します。
ちなみにこの論説が『沖縄新聞』掲載されたのは明治42年(1909)2月21日であることを考慮の上で下記引用をご参照ください。
沖繩人の最大缺點は人種が違ふといふことでも無い。言語が違ふといふ事でも無い。風俗が違ふといふ事でも無い。習慣が違ふといふ事でも無い。沖繩人の最大缺點は恩を忘れ易いといふ事である。沖繩人は兎角恩を忘れ易い人民だといふ評を耳にする事があるが、これはどうしても辨解し切れない大事實だと思ふ。自分も時々斯ういふ傾向を有つてゐる事を自覺して慚愧に堪へない事がある。
あまりにも有名なこの一節ですが、そうなった理由として伊波先生は「沖繩に於ては古來主権者の交迭が煩繁であつた爲に、生存せんがためには一日も早く主人の恩を忘れて新主人の徳を頌するのが氣がきいてゐるといふ事になつたのである。加之久しく日支両帝国の間に介在してゐたので、自然二股膏薬主義を取らなければならないやうになつたのである」と説明しています。
なおここで「恩」の意味を考えてみると、
①他人から与えられためぐみ、いつくしみ。
②封建時代の家臣に対して主人が領地などを与えて報いること。
の2つがありますが、伊波先生が想定している「恩」はおそらく②です。おそらく明の滅亡(1644年)以降の琉球王府の二股外交を念頭にこの論文をまとめたと考えていますが、当時の琉球王国時代において②の意味における恩の観念が社会に存在したかブログ主は寡聞にして存じません。
本当に困った時に助けてもらった経験に乏しい社会
廃藩置県までの琉球社会およびその後の沖縄県において、果たして”恩”という観念が社会全体で共有されていたのか、きわめて興味深いテーマではありますが、ひとつ確実に言えるのは琉球・沖縄の歴史において「本当に困ったときに助けてもらった経験が乏しい」ことがあります。
典型的なのが慶長の役(1609年)で、朝貢関係にあった明国はついに琉球国の救援に来ることはありませんでした。明治12年(1879)の廃藩置県の際も同様で、清国は外交交渉で琉球の帰属について主張はするも実際に実力行使に出てくることはなく、しかも日清戦争に敗北して沖縄に対する発言権を失うことになります。この2つの事実は琉球の帰属について中国共産党や台湾が強い発言力を持たない理由の一つですが、また当時の為政者たちにも心理的に大きなショックを与えたのではと考えられます。「いざというときには助けてくれない」という発想のほうが強くなれば恩の観念が社会全体に共有されない、そう思わざるを得ません。
これは為政者だけの話ではなくて民間も同様です。たとえば飢饉や疫病、あるいは天災が発生すると百姓たちは納税義務が1年延期されます。ただし翌年からは通常の貢租納入の義務を課されるという無茶を強いられてきたのです。そんなことを200年以上継続してきたら恩という概念は生まれてくるはずもなく、逆に「なにか裏があるのでは」という不信感が社会全体を覆うのも当然といえば当然なのかもしれません。
他者に対する不信が目先の利益を最優先にする元凶
なさけやいつくしみという観念には「見返りを受けない」というニュアンスが含まれます。ところが廃藩置県以前の琉球社会には見返りを受けない善意が理解できない節があるのです。一例として明治6年(1873)に来琉した伊地知貞馨は、社会の余りの貧困ぶりに殖産興業の一環として開墾と養蚕を当局者に奨励しますが、その時の回答が「そういう話は知っているが、いざ開墾や養蚕を始めると貢租が課されるのでお断り」でした。困った伊地知が「いやそういうつもりは毛頭ない」と力説しても当局者は伊地知の善意を全く理解できません。
もう一つ明治8年(1875)に琉球藩に軍隊を駐留させる件で、明治政府側が駐在地や諸費用を負担すると通告した際には「諸経費は琉球藩で負担する」と申し出ました。来琉していた松田道之は「好意はありがたいが、(軍隊駐留は)納税負担による義務のため琉球藩で負担することはない」と説諭しますが、この案件は「恩を着せることでこちらに優位に事を進めよう」という琉球伝統の外交術でもあります。
上記2つの事例に共通するのは「相手に対する不信感」です。善意には必ず裏があるとの発想が支配的になれば、恩という概念が社会全体に共有されることはありません。したがって「恩知らず」という言葉もなく「義より利」を優先するのも至極当然であり、その結果伊波先生が嘆きの論説を掲載する羽目になってしまいます。
ただし現代では伊波先生のご指摘はそっくりそのまま当てはまることはありません。その理由は明治40年代と違って私有や契約の概念が社会全体に浸透することで、結果として信用社会を築き上げることに成功したからです。個人レベルでは恩知らずの輩はいるでしょうが、社会全体の信用度の高さが100年前と桁違いであり、そうなると琉球王国末期の不信の極の状態から一世紀余りで高度の信用社会を構成したことは奇跡以外何者でもありません。ブログ主は改めて現代社会の素晴らしさを実感している次第であります(終わり)。