今回は大日本帝国時代における人事についてのお話です。明治12年(1879年)の廃藩置県によって我が沖縄県が誕生しますが、普通町村制に移行が大正10年(1921年)と他府県に比べて遅れた影響か、県庁および各種学校や警察などの主要人事は他府県人の独占状態になってしまいます。このあたりの事情を高嶺朝光著『新聞五十年』を参照すると、
(中略)それから大正、昭和と下っても相変わらず沖縄県の主要人事には厚い差別のカベが張りめぐらされ、知事はじめ各部長、男女師範学校など、沖縄県人の手に届かない夢のポストになっていた。沖縄県人の最高ランクが県属どまり、警察あたりでも、せいぜい警部になればいい方だった。
と記載されています。岸本賀昌(1868~1928)氏は例外として、当時の沖縄県人が人事の慣習によって昇進に制限があったのは事実で、大正10年(1921年)に一般町村制が施行され本土と同一の制度が適用された後も”差別のカベ”は継続します。だがしかし、昭和6年(1931年)に平良辰雄(たいら・たつお)氏が沖縄県庁において会計課長に任命されたことで、これまでの人事の慣習が打破されます。
平良さんは明治25年(1892年)大宜味村に生まれ、沖縄一中卒、旧制第八高等学校中退、沖縄県庁に県属として勤務し、そこで井野次郎知事に認められ課長に昇進します。平良さんが課長に昇進した後は県出身者の課長が次々と誕生しますが、そのいきさつについても『新聞五十年』を参照すると
平良君が“差別のカベ”を突破したあと、亀島大成、呉我春信、伊芸徳一、城間恒昌、糸数昌保、仲宗根秀俊氏ら、つぎつぎに課長が誕生した。警察部でも森根剛氏が高等官の最初の警視になり昇進の道が開けた。平良君は井野知事に目をかけられ、沖縄振興十五か年計画の政府折衝にも知事を補佐している。沖縄戦までに、商工水産課長(昭和十年)、八重山支庁長(翌年)、県振興課長(昭和十四年)、その後官界を去って産連会長、農業会長をなどを歴任した(中略)
とあります。平良さんの出世は当時の沖縄にとって二重の意味を持ちます。ひとつは彼が大宜味村出身であったことです。いわゆる”ヤンバラー(山原出身者)”で首里や那覇の出身ではなかったこと、もうひとつ旧制八高を家庭の事情で中退しており、学歴エリートとはいいがたい経歴の持ち主であったことです。つまり平良さんは実力が認められて当時の沖縄県における主要人事の悪しき伝統を打破したのです。
戦時中の平良さんについて興味深いエピソードがあります。昭和17年(1942年)に産業連合組合会の会長を務めていた平良さんが当時大阪毎日新聞那覇支局に勤務していた瀬長亀次郎さんを採用したお話です。仲宗根源和著『現代人物評伝 瀬長亀次郎』から該当部分を抜粋します。
「瀬長君は新聞の取材のためによく産連にではいりしていた。会ってはなしてみると、人間は真面目だし、頭もわるくなさそうなので、どうだ僕のところにきて働いてみないか、と誘うてみると、それは有難い、そう願えればまことに有難い、というから採用することにした。ところが、特高課が瀬長は要注意人物だからといって産連に採用することに反対した。然し会長たる僕が採用するのに特高課が文句をいうことはないぢゃないか、そんなにオレのやる人事にまで差出口をきいたり、気にいらぬというなら、オレをやめさせたらいいぢゃないか、と突張ったら、とうとう特高の方でも折れてしまった。
この時の特高課長は沖縄で戦死した佐藤という特高課長である。産連は戦時体制になってからはその重要性が高く評価され、その会長は中央政府のイキがかかっているので、県庁では産連会長の地位は動かせなかったのである。それにしても平良産連会長は瀬長亀次郎という男に随分打ち込んだものとみえる。(中略)
平良辰雄さんは昭和14年(1939年)に県振興課長を務めたあと、沖縄県庁を去って大政翼賛会沖縄県支部壮年団長、そして産業連合組合会(後の沖縄農業会)の会長を務めます。この話のポイントは2つあって、一つは戦時中の重要なポストに沖縄県人が任命されたことと、そしてもう一つは特高ですら平良さんの地位を動かすことはできなかったことです。明治および大正時代では考えられないエピソードであり、戦時中という特殊な環境下ではありますが、沖縄県人の地位は(ゆるやかではありますが)確実に上がっていた何よりの証拠です。
大日本帝国下の沖縄は「天皇陛下の前の平等」の建前のもと制度的に日本臣民として扱われます。ただし制度に対して社会慣習および当時の他府県人の意識が追いついていない現実もありました。それゆえに上記の”人事における差別のカベ”が存在したのですが、昭和にはいって一人の沖縄県人が実力でそのカベを突破します。平良さんに関しては戦後の沖縄群島知事のイメージが強いと思われますが、実は琉球・沖縄の歴史にとって極めて重要な役割を果たした偉大なる人物なのです。7月10日の沖縄タイムス紙上で上里隆史先生は遠まわしに「戦前の歴史の見直し」に言及されましたが、その際には平良さんのような人物を積極的に取り上げるべきと確信している次第であります。(終わり)
【参照】「戦前」の研究 なお未開拓