(続き)例えば、私たちのおじいちゃん、おばあちゃんの、そのまたおじいちゃん、おばあちゃんたちが味噌汁を食べてたという歴史があって、朝はパン食にするにしても、どうしてもゴーヤーチャンプルー(ニガウリの炒めもの)というものが沖縄にある、食べたことないけどあるんだというのはわかるわけです。こういう味噌汁の余韻というのがあるわけです。おかず、漬物というのがまだ残っているわけです。
また、ポークというのがありますが、ポーク炒め、ポークエンド卵とかなんとかコザにたくさんあるし、名護にも残っていますよ。ポーク缶詰のランチョンミートを細く切って、おかずに入れるでしょ、あれは終戦後のチューインガム売りや、靴磨きの時代から続いているもので、まだ抜けていなくて余韻が続いているんです。
だから、いくらパン食しても、朝シャン(朝の洗髪)でも夜シャンでも昼シャンでも、生活文化が西洋的になっていても、私たちには伝統的なものが基礎として染みついて残っているわけです。
歴史は繰り返されるといいますが、今、戦争体験者と体験者じゃない人のバランスが崩れてきて、今は体験者じゃない人が多くなってきていると言います。でも、まだそれを大事に残しておこうと、耳で聴いて目で見て、文章にして歴史に残しておく人たちもいます。それと同じだと思います。
□永いロック人生において 本当にバカなんですよ。ロックばっかり三〇年もやってね、いくらなんでもニリラン・ガヤー(飽きないかな)という感じですよね。
だいたい私とバンドをやったら「二度とあいつの顔見たくない。ニリルカ・ンジョー・ンドォー(飽きるほど見てるよ)」といって逃げますよ。
ロックを三〇年やるとね、例えば自分が落ち込んでいても、自分が変わらなきゃ変わらなきゃと頑張る時期があって、頑張ってある程度のところまで来て疲れて休みたいと思ったときには、今度は周りが頑張ってくるんですね。周りが変化してくるわけです。「あれっ、何もしてないのになんで周りが勝手にまだ変化していっているね」という感じですので、私もまた変化しようといったら、こっちもまた変なものになるわけ、世の中が。
私の場合は、自分では何もやっていないつもりだけど、自分自身でやっていることを自分でわかっていないわけです。私はブルトーザーみたいにがむしゃらにやってきたわけです。
例えば「誰が此のオリジナル嫌いって?ターガ(誰が)、あのレコーディングディレクターがアビー・タン・バー(いったのか)。ディッ・カー・ウチナー・ンカイ・ケーラ、シンキー・サンケー(さあ沖縄に帰ろう、シンキやらなくていいよ)」と、こういう問答無用的なロックンローラーのときが私にはあったわけです。
また、他のミュージシャンに「ここさ、この汽車ポッポには歌詞が一番しかないさね、これは一番しかないということはだめじゃないか」といわれたら、私は「この曲は一番だけ使うために作ったわけ」といって他人のいうことは認められないわけです。
場外乱闘というのか、土俵の上で勝負しないで土俵の外で行ったり来たりして頑張る人いますね、あのマングローブみたいに潮水と真水が混ざったようなやつがいて、ああいう生き方もあるわけです。こういう生き方は私じゃないんだけど、なんか周りがそういう感じになる場合があるわけです。
日本では一九八〇年代はロックが行き詰ってくるという話がありますが、日本の中だけそうなってしまったのであって、相変わらずアメリカやヨーロッパではロックは永遠なものなんで、全部関係ないんですよ。日本では他のいろんなものをチャレンジしてみるとか、あれとこれとくっつけてみるとかして、だいたい出過ぎてやりつくしてしまったんじゃないですか。(調査:一九九二年九月)