ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その2

□中学校時代 私は、中学はコザ中学校です。

当時は、ゴヤ商店街(今の一番街)がありますよね、そこのおやじはほとんどみんな知っていますから、洋服とかシャツとかの品物を置いてある台が店の前にあって、そこでおじいちゃんなんかが囲碁とか将棋をやっているんですよ。

それで、中学校の帰りに「何やってるのかな」とのぞくと囲碁は白と黒がこうなって、将棋もこれがこうなって、ああこうなってこうなってと、ずっと二時間ぐらい見てて、それでだいたいわかってきて「アハァ、ウレェ、ウング・トゥー・シルス・サヤー(これはこうやってするんだな)」と覚えたわけです。

それで、「ひとつオジーお願いします」といって相手してもらっていました。

そのおじいさんに「ヤーヤ、テェーゲェー・ヤー素直な碁ヌ・ウチカタ・スッサー・ヤー。オユキ・ヤ、アレーけんか早いヤー、アレー・ヤー、すぐチュヌ・メー・カラ・ボンミカチ・ウチュ・シェー・ヤー。性格すぐンジーン・ドー、グゥーン・ディーシェー。ゴルフや将棋ンすぐ性格ンジーク・トゥ。ヤーヤ・ヘンナムン・ヤッサー、ヤーヤ・ワカティー・ガ・ウラ、ワカテェー・ネェーンがアラ、ワカラン・ウチカタ・スッサーヤー(お前は、大概素直な碁の打ち方するね。幸雄の碁はけんか碁だね、あれはすぐ相手の陣地へポンポンポンと元気に置くからな。囲碁というのは性格がすぐ出るんだよ。ゴルフや将棋でもすぐ性格が出るよ。おまえは変なものだな、お前は理解しているのか、いないのか、わからない置き方しているな)」といわれたんです。

それで私が「アラン、ウングゥ・トゥ・ウチーネー・チャーナイガ・ヤーンディー・ウムティ(いや、こんなして置いたらどうなるのかなあと思ってだよ)」といったら、おじいさんに「アッタマニ・マンナカ・カイ・ボンミカチ・ウカンケー、ヤー・アシリル・ウルイ(突然真ん中にボンッと置くんじゃないよ。お前はふざけているのか)」といわれてしまったので、私は「ウマカイ・ウチシ・マン?ウマー・アトゥカラ・ル・ヤービーン?、アンシェー・カドゥカラ・ヤー(ここに置くのは良くないの?ここはあとからなの、それなら端っこからやろうね)」というふうにやって、囲碁の腕前もある程度までいったんです。

囲碁は時間がかかりますので、オユキなんかとやると、エンディングに近づいてきてそろそろ自分が負けているなというのがわかってきたらオユキは待ちが多くなるんですよ。

だから、私が「ウリ(ほら)、ナー(もう)終わり。マッタン、マッタン・ドォー(待たん、待たないよ)、幸雄、絶対マッタン(待たない)」というのですが、「三回目、マッタン・ドォー・ンデー(待たないっていってるだろう)」といって断ると、最後にオユキが碁盤をひっくり返したこともありました。それで私は「アイ(あっ)、めちゃくちゃしたな、お前」といって、こういうのでけんかなどもしました。小学校六年から中学校にかけてもです。

また、小学校まではのぞきとかもしていましたが、当時、小学校ののぞき見グループがいくつかありましたね。中学校に入ってからは体を動かすのが好きなので、いろいろなスポーツをやり始め、体操部にも入りました。休み時間に跳び箱を自分の身長より高くして、女生徒も男生徒もギャラリーがいて「あれ跳んだ人いないよ」といっているし、男生徒はみんなこれに熱狂して「ウッピ・ナー・タカサル、ウリ・ターガ・タティ・タガ。ウッサ・キナー・タカク・スンチ・アンナ(こんなに高くしてある、これ誰が立てたのか。こんなに高くするってあるか)」といっているんです。これを必死にジャンプして跳んだり、水泳では、コザ中学校代表で全島大会に参加したこともありました。

だからもう中学時代は女性とかには目もくれないで、もうバカみたいにスポーツだけやって、立ち幅跳びで何メートル何センチできるか、立ち三段跳びどうしてって、これだけでした。

□中学三年に卓球で全島優勝 今の一番街(当時、胡屋中央市場)のなかに卓球場があったので「クマァ・マタ・ヌーヤガ(ここはまた何だろう)」と思ってのぞいてみると、なんかスポーツをやっていて、ギャラリーもたくさんいたんです。

それで「アイ、カタグヮー・チキトーッ・サー(おや、恰好つけているな)。アイ(へぇ)、あいつ目立っているヤッサー」と思って、二〇セントで何時間かできますから、こうしてこうやったらこうできるんだということで、私はこれも見て覚えてパカンパカンやっていたわけです。

それで私がピンポンをやっていたら、「ヌーガ(なんだ)カッちゃん、ヌーソーガ・ヤーヤ(何してるんだおまえ)」とオユキがやって来たので、「ウレー(これは)簡単。ウングトゥ・グヮー・シェー・カラ、アマカイ・ポンミカ・チイ・チュン・ヨー(こうしてやれば、むこうにポンッと跳んでいくよ)」と教えたんですよ。

私と幸雄はお互いに「ヤーガ・ナイル・ムン、ワーガ・ナラン・チ・アミ(お前ができるのに、俺ができなということがあるか)」という感じですから彼もやり始めたわけです。

今でもテニスとかやっている人の中にいますが、卓球場に毎日来てギャラリーに見せるためだけにやっているカッコつけのプレーヤがいるわけですよ。

それで、そのときは全然自分が将来国体に行くとも思っていなかったんですが、ただウヌ・カッコー・チキヤー・グヮー・タッピラカシ・ワル・ナイッ・サー(このカッコつけている奴をぎゃふんといわせないといけないな)と思って、パカパカやっていたのが中学一年生のころです。

それでカタ・グヮー・チキ・ヤー(カッコつけたがり)と勝負をやって負かしたんです。それをたまたま見て、どこかの高校のそれこそプロフェッショナルというような部に入っている連中が、カッコつけてスポーツバックを持って入ってくるわけですよ。

私たちはゴムゾーリで入ってきて、球が来たらすぐ手でバンミカシテ(バンッと打ち返して)、「アイ、イー・タン(ほら、入った)、これだめなの、でも平手で入ったさー」と、右でバンナイ・バンナイやって(バンバン打ち返して)、左側は素手で打つというふうにやったりしていたので、「これはカウントにはならん。これはノォーカウント」といわれて、「でも入ったよ。入らなかったらアウト、入ったらいいんじゃないの」といって、私たちは「イレー・シムサ(入ればいいさ)」と思ってルールも何もわからんわけですよ。

一応、こうやって上手くなってきたんだけど、でも本当にカッコいいのもくるわけよ。高校の大先輩になるけど、やっぱりギャラリーを意識してカッコつけるのとは違って、静かにして、柔軟体操もやって、無言でやってカッコいいわけよ。

それを見て「アー、ウリ・ヤサ・ヤー、フントォー・ウング・トゥー・シスサ・ヤー(ああ、これなんだな。本当はこんなしてやるんだな)」というのがわかって、私たちは「アイ、チガトーン(おや、違っている)」、「ワンニン・チガトーッ・サー(俺も違っているよ)」ということで、それからお願いして彼らに「フントォー、ピンポン・ディーシェー・ウング・トゥー・シルスン・ドー(本当は探求というのはこんあにしてやるんだよ)。ラケットというのは、必ずこうしてペン持つみたいに持つの」とか教えてもらったわけです。

中学一、二年まではオユキと二人でこういう遊び方をしていたんですが、私は車に乗ったこともないのに、あいつ(オユキ)は、那覇行っておかしくなってきて、もう車に乗ってとか変な遊びをしていました。

私は中学三年のときに、卓球の全島大会で個人優勝してしまったんです。

それで、「アマヌ、エー、胡屋中央市場のヤナ・ピンポンヤー・ンジ・ソー・タル、アヌ・ヤナカーギー・ル・ヤッ・サー(あそこの、ほら、胡屋中央市場の汚い卓球場でやっていた、あの顔の悪いやつだよ)と高校から目をつけられて、「お前、高校どこ受けるか」と聞かれたりして、「一応あの、コザ高か普天間か、大学行きたいから、首里か那覇どっちかねらいます」と答えたら、「コザ高に来い、すぐ一年からレギュラーさせるから」と誘われたりしました(続く)。