ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その16

□クビと再加入 喜屋武幸雄の「マリーWITHメデューサ」のバンドと「コンディショングリーン」の二つでやっていた「サウンドシティー」が一年以内に閉鎖したあと、私が金武のむこうでやっていたときに、ミュージシャンとミュージシャンじゃない私との違いが出てきました。

私はけっこう自分勝手で、ステージ降りたらもう戻ってこないというタイプだから、後ろで真面目に音楽やっていると、あいつ(私)は真面目にやっていないっていう感じでもう頭にくるわけです。また、だいたい年取ってくると、目をつぶって自己陶酔するような「僕は職人だ。俺は音楽家だ」というのが芽生えてくるものです。

でも、私の場合、最初から「ピンポンってこうか。あはー大丈夫」と見よう見まねでやって、音楽もそういう調子で始まっているから、今でも私のことをミュージシャンだと思っている人がいますが、本当はミュージシャンではないんです。

だから、焼き物でも絵を描く人でも写真家でも「俺は職人だ」という人は目つきや態度が違いますよね。でも私みたら全然そういうのがないから、だからもう私とバンドを組んだ人は頭にきて毎回バンドをやめるわけです。それで毎年ピースフルで私のバンドは毎回メンバーが違うでしょ。私とは「二度とやりたくない」ということなんです。

アン・シー・ネー(そうすると)「コンディショングリーン」がデビューすることになったわけですが、そのとき私が一回クビになったんです。

「お願いだからカッちゃん、ワッター・サ(俺たちなー)内地からレコードデビューしないかっていう話もきてるしよ。カッちゃんのやり方じゃたぶんだめだと思うから、カッちゃんのことを思ってカッちゃんは今回退いてくれないか」といわれたわけです。

それで、私のことを良くわかっているあの海洋博で失敗したクラブのオーナーが「イッター(お前たち)、カッちゃんクビ・ナチ(首にして)デビューできると思うか」といってくれたんですが、彼らは「イーイン、カッちゃんと一緒では僕ら絶対デビューできないよ。あんなステージングで内地の人たちがロックバンドデビューさせるかね」とこんな感じでした。

そういうわけで私は「アンシェー・トォー、イッター・ミッチャイ・サーニ・スンバー、トォー・シェーワ、ワンネー・クビ・ナイン・ドー、トォー・アンシェー・イッター・ナイラー(そうすると、お前たち三人でするわけ、よしやれよ、俺はクビになるから。お前たちでできるんだったら)。じゃ行って頑張ってこい」と送り出したんです。

でも彼らは、どこかの芸能プロにだまされて、京都の変なナイトクラブで演奏させられていたんです。

そのとき「サウンドシティー」が閉まって一年後に、私は自分でまたコザのロキシー映画館の地下で「ディスコライブ=ディスコ・ジャンボ」を経営していたんです。

そしたら、みんながトランクを持って帰ってきているわけです。

それで「ヌーガ・イッター・ヤ(なんでかお前たちは)、こんなに早く帰ってきて」と聞くと、「アラン(違う)カッちゃん、話トゥ・チガトォー・タッ・サー(話と違っていたよ)」というんです。

私が「マサカ・ヒャー、イッター・ワン・クビ・ナサーニ・カイ、話トゥ・チガトゥー・タン。ヌーガ・マーヌカーヌ・チガトォー・タガ(お前たち俺をクビにしながら、話と違っていたって。なんでどこがどんなふうに違っていたわけ)」と話を聞いてみると、「ヌーガ・ナヨーナー・ヘンナ・ムン・ヤタン・ドォー。三流バー・サーニ・演奏シミラッ・タッ・サー(なんかもう変なものだったよ。三流バーで演奏させられたんだよ)」という話でしたから、私も「マサカ・ヒャー」と驚きました。

それで「ディスコ・ジャンボ(ライブハウス)」で練習させて、また沖縄でパーンとやっていって、「今度は僕も入るから、それからな」ということで一回仕掛けたら、そしたらマルアタイ(大当たり)したんです。

でも、あまりにも当たってしまったので、メンバーの一人が「もういい。俺はレコード出したんだ。ここまで来るのに俺はもう。本当はサトウキビ植えて生活したかったのに、カッちゃん俺はもうここでいい」といってバンド活動に満足してやめるといい出したんです。

私は「何がいい。ヤー・タックル・サリーン・ドォー・ヤー、ナマカラ・ドゥ・ヤンドォー・ヤー(お前は殴られたいのか、これからなんだぞ)と説得すると、まだ「ハー、難儀、難儀。やっとレコード出した」といっていましたが、そのあとアメリカに二回も行っているんですよ、だから「あのときお前抜けていたら、アメリカに二回(一九七八と七九年に)も行けなかったはずよ」といっていますよ。