山川警部殉職の状況 / 与那原警察署 山城常茂

1,はじめに

「11月10日」この日は私にとって忘れようとしても忘れられない痛痕の日である。

その日は復帰協を中心とする、ゼネストの日であった。

それ以前に、沖縄青年委員会会長と称する中核系の山城幸松が帰省しての記者会見の際

「沖縄に於いて第2の成田以上の暴動をおこし盛りあがりを見せねばならぬ」

と実に狂気の沙汰としか思えない発言をし、更に全軍労のスト、抗議集会等によってゼネストへの盛りあがりを見せて、当日は相当に荒れることが予想された。

山川警部殉職後、革新団体は、

「復帰協とは関係ない」「殉職に対して哀悼の意を表する」「お家族に対してお悔やみを申し上げる」と、おざなりの発表をした後、この問題が政治的様相を呈するや、あの現場に於けるデモ集団の違法行為(復帰協の解散宣言後の復帰協宣伝カーに対するデモ隊の抗議、圧力、投石等)はひたかくしにして、警察の非難抗議に明け暮れ、果ては、山川警部殉職の実情も知らない人々が、マスコミを通じて投書、誹謗するに至っては言語同断と言わざるを得ない。

しかし、山川警部を含めて、私達警察官が政治から離れて、本当に純粋に治安維持のため警備に当たって来た事等を思い浮べて反論することは、山川警部の霊を冒瀆しはしないかと考えて、その都度、はやる心を押さえてきたものであるが、機関紙を通じ山川警部殉職当時の状況を記し、山川警部のみたまをとむらいたいと思う。

2,山川警部殉職前の状況

11月10日正午、与那原署点検場に小隊長以下26名勢揃いして、比嘉署長からこまごまの指示のあと

「月並みのことばだが、小隊長の指揮の下一糸乱れぬ万全の警備に当たり、警備心得五則を守って、最大の目標たる、彼我の負傷者を出さないよう注意して貰いたい。」

との訓示を受けて勇躍して任務地である、普天間警察署勢理客派出所に向ったのであるが、それが署の残留組にとって山川警部との最後の袂別になろうとは神ならぬ身の知るよしもなかった。

12時45分勢理客巡査派出所に到着した。すでに第4大隊長喜友名警視他3名が、到着しておられたので、人員、器材の報告をなし、更に、私は私なりの考えとしてこのゼネスト警備のデモの過激性と隊員の気を引きしめる面から、

「火炎ビン、爆弾等の投擲は必ずあるものと思え、後退する場所は、第二兵たん部隊に通ずる道路であるので、後退の際の地形地物の利用の点からも今の中に地形を憶えておくこと、爆弾等の投擲に際し、万一、小隊長に事故のある場合の指揮者は山川部長、上江洲部長の順とする。」

と隊員25名に指示、3名の立哨員を残して隊員を休憩せしめたのであるが、山川部長は私の側近くに、伝令の国吉正弘君と位置して隊員との連絡を密にしていたが、

「係長、昼食はアシティビチを食べたが、御飯が生でね、村山刑事等は、プンプンして更にソバを注文して食べていたよ」

とか

「交通事故の未処理が多くてね、こう警備ばかりでは処理に大変だ。」

等、よもやま話に花を咲かせ、彼独特の話術と左上門歯を上唇でかばうが如き、ふくみ笑いをしながら、何時もと変わらぬ態度であった。

午後1時20分頃、第一小隊である名護署の仲間中隊長以下39名が来たので、そこで合流し立哨を名護署員に引継いで隊員全員を休憩せしめたが、休憩中、第一分隊長の宮国君の馬鹿話に興じ、愉快な談笑が続いてあのいまわしい事件のかけらも考えられない程の、ゆとりと、雰囲気がただよっていた。

午後5時頃になって、仲間中隊長の指示で山川部長の所属する第二小隊は勢理客派出所北西方、電力公社裏側路上に不審車両検問の為め転進して、検問を開始した。午後5時20分頃、

「デモ集団が近づいて来るので所定位置に配備につけ。」

との中隊長命令で勢理客派出所前十字路に南側より第一小隊、第二小隊の順で中隊65名が1号線に面して、2列警備隊の隊列で大楯前列、小楯後列の隊形を整えた。その時の山川部長は小楯班のため、左翼分隊の後方中央部に位置し分隊員の掌握に当ることにした。

3,山川警部殉職の状況

午後5時25分頃、沖縄県教職員組合のデモ隊が、1号線せましと道路一杯に拡がり、「返還協定粉砕」のシュプレヒコールを繰り返えしながら通過して行ったが、中から「機動隊帰えれ」と叫ぶ、組合員2~3名がいただけだった。

沖縄教職員組合のデモ集団が通過後は後続のデモ集団もなく、小康状態になって、

「どうしたのか、デモはこれで終りか」

と思われる程であったが午後5時40分頃

「安謝派出所に火炎ビンが投げられている」

と隊員の中の声に、安謝派出所の方向を見ると、火のついた火炎ビンが弧をえがくようにして次から次へえと投げられ、相当な煙があがっているのが見えた。

隊員の中から

「相当多量な火炎ビンを持っているようだぞ。」

「注意が必要だ。」

等の声が聞こえて来る。隊員の顔が緊張で引き締まる。

午後5時47分頃、安謝橋を過ぎ、スバル中古車浦添営業所前に差しかかった頃には、200~300名のデモ集団(全軍労)の先頭中央部に、さも集団に左、右、後方を守られているように(私にはそう見えた)両手にたいまつをともしたような40~50本の火炎ビンを持った集団が近づいて来た。

一瞬、隊員は緊張して声なし

「大楯構え」

の号令が下る。その時である、火炎ビンを手にした集団がいきなり、電力公社正門を過ぎた頃、電力公社のフェンス寄りに移動したかと思うと、

「3名殺せ、3名殺せ」

とのかけ声と共に第一小隊めがけて突進してくるや、私共の中隊めがけて火炎ビンの投擲が始まった途端、第一小隊の右翼がくずれると同時に、一番左翼にいた中隊長が

「前に出ろ」

と言いながら自ら前進した。近くにいた三分隊も分隊長以下(隊員6名)前進したが、その時、仲間中隊長の左顔面に火炎ビンが命中すると同時に一小隊は後退し、二小隊は孤立するに至ったのである。

その頃には、火炎ビンは、雨、霞の如く吾が小隊に降りかかり、小隊の前後左、右は火炎ビンの炎と煙の渦でこの状態では隊員の身が気ずかわれ、

「引け、引け」

と大声を張りあげたが、現場は炎と煙しく怒号の渦で、号令の浸透は困難だった。隊員は、或る者は頭から、或る者は足から、肩から、ほとんど全員が火炎ビンの洗礼を受けて、三方に後退した。デモ隊は追撃の手をゆるめず、勢理客派出所前まで追撃して、更に火炎ビンに点火して投擲した。そんな状態の中では、隊員は、各自、火炎ビンを振り払うのが精一杯だった。4~5分も勢理客派出所を中心にして攻防を繰り返えしたが、先程の防禦付近は火の海となって、前方のデモ隊員の状況は皆目分らず隊員の〔収集〕を図って、勢理客派出所及び、その周辺の消火に当っていた頃の午後5時55分頃、1号線反対側にいた野次馬の集団より

「機動隊員が倒れているぞ」

との声に、隊員2~3名と共に現場に走った。そこで見たものは巡査部長の階級章をつけた隊員の姿だった。上半身は焼け、顔面血だらけで隊員の識別は困難である。ここには吾が小隊しか居らなかった筈だが、まさかと思いつつも、隊員を集めて確認に努めた。

「山川部長他2名行方不明」

との報告で一瞬血の凍る思いでガクンと来たのであるが、気を取り直して

「直ぐに3名を探せ」

と指示し、救急車、その他の車両の手配をした。

しばらくして復帰協の宣伝カーが来て

「こうなれば敵も味方もない、警察官でもよいから、乗せてやろう」

と云って、その宣伝カーに収容して病院まで運んだ。

山川警部殉職の実情は、目撃者2名が

(特に名前を秘す)

「あの連中のやり方が人間とは思えないので見た事をお話します」

と声をふるわせながら大要次の通り語ってくれたので、その実情を知るに至ったのであるが、それは

「火炎ビンが機動隊に投げられ、火の海となった頃、5~6人の機動隊員が、道路の3分の1程まで来て直ぐ後に引いたが1人の隊員はその時、火炎ビンを浴びて後に退ろうとした。そのとき、デモ隊の1人がその隊員の後から、こん棒で背中を叩いた。その機動隊員は道に倒れたが、3名で引きずるようにしてあの場所(山川警部殺害現場の意)に連れて行き、こん棒で叩いたり、足で踏みつけられたりしていたが動かなくなると、火炎ビンを叩きつけて焼いていた。あれは人間のする事ではない」

と実に耳も覆いたくなる様な説明に呆然となって座り込んでしまったのである。

4,結び

「警察官の死は当然である」とゆうな荘で平然と記者会見した山城幸松。

「こうなれば敵も味方もない、警察官でもいいから運んでやる」

と救助現場で洩した復帰協の幹部の言動。セクトやイデオロギーの為には、人命を軽視し、最初から敵視している事は、反戦平和、人権尊重を口にする者等に矛盾は感じられないのか。警察官とて人の子、家に帰えればよきパパであり、よき夫、社会人である。警察官なるがゆえに殺されてあたりまえであり大衆の敵と言うのか。

更に、心もとない人々の事実を歪曲した投書、誹謗、私には聞く耳は持たぬ、むしろ、そっとしておいてやった方が純粋に職に殉じた山川警部の霊を慰めるものだと確信する。

そして山川警部の殉職を機に、本当に治安の礎として、県民に信頼される警察官たる事を誓い「山川警部の霊を安らかに」と祈ってやまない。(合掌)(昭和46年12月25日発行、「海邦」11・12月合併号)